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「ミサキ……」
私には、それがすぐにミサキだとわかった。
「お前のせいだ」
いつもの冷たい声で彼女は言う。
「自己満足で責任ある仕事に足を突っ込むからこうなるんだよ。偽善じゃん、そんなの。お前みたいな嘘つきが、いったい誰を助けるっていうの」
ミサキはそう言うとベッドに腰掛け、私を見下ろす。顔全体に陰が掛かっていてよく見えない。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。怒っているのだろうか。それとも嗤っているのだろうか。
「もうやめてよ。それが償いのつもり? 周りに迷惑ばかりかけて、恥ずかしくないの? 何もできない役立たずのくせに、いつまで居座るつもり?」
私はミサキに謝りたくて必死に口を開けようともがいたが、いつものようにうまくいかない。ようやく口が開いた時、ミサキはもう寝室から消えていた。どうして私はいつも謝れないのだろう。
いつもの癖でスマホ画面を見ると、二時間以上寝坊していることに気が付き、一気に血の気が引いた。私は病院に電話を入れ、急いで支度をし、部屋を飛び出した。
駅に向かう途中で彗星蘭の前を通りかかると、ちょうど木戸くんが出てきた。看板犬の散歩に出掛けるのか、左手にはリードが握られている。
「あれ? 今日は遅出?」
木戸くんは私の顔を見るなり何のためらいもなく話し掛けてきた。仲が良い訳でもないのに、妙な人だなと思う。最近は特に話し掛けられる事が増えたような気もする。
「寝坊。二時間くらい」
私が答えると、彼はちらと腕時計に目をやり、笑いを誤魔化すように口元を歪めた。
「どうせなら、何か飲んでいけば? 今日のおすすめはジンジャーレモネード200円」
返ってきたのは予想外な返事だった。どうしてこの人はこんなに呑気に生きていられるのだろうか。私は、こういう人種とは一生解り合えないと確信した。この人は自分の将来や世間体、周りへの迷惑について考えたことがあるのだろうか。
「いや、なんでそうなるの……? 普通そうならないでしょ」
「そう? だって、どんなに急いでも遅刻は遅刻だし。電車が来るまでまだ時間もあるんだし、ね~」
そう言って犬の方に目線を落とす。お気楽過ぎて眩暈がした。それと同時に怒りとも苛立ちとも違う奇妙な感覚に襲われ、すぐにでもその場を離れたくなった。
「遠慮しとく。悪い事した人間が、呑気にお茶なんてしてちゃ駄目でしょ」
私は木戸くんの誘いを断り、駅へと向かった。正直、暫く彼には会いたくないとすら思った。何となく自分の価値観の方が間違っているような気がして、居心地が悪かったのだ。
それからというもの、私は名誉挽回するべく独り奮闘したが、あの日のミスから私と他の職員の間にははっきりと境界線が引かれてしまっていた。
きっと突然引かれた訳ではなくて、ここに入職した時から少しずつ少しずつ引かれていたのだと思う。私の気付かぬうちに。針刺し事故は単なる起爆剤に過ぎなかったのだ。かつて何とか「普通」の形を保っていた「おかしく思われないためのコミュニケーション」も、徐々にうまくいかなくなっていった。いや、そもそも初めからうまくなどいっていなかったのかもしれない。
頭の回転が目に見えて鈍くなり、相手が欲している回答を瞬時に思い付けなくなった。思ったことをそのまま言ってしまい、気まずい空気が流れることも珍しくなくなった。
いつしか人と目を合わせるだけで苛つくようになり、当然ながら私の存在は排除すべき異物として扱われるようになっていった。
「古見っていう子、大丈夫なの? この前もCT室に案内する患者さん間違えてたし、紹介状に同封するCDの依頼まで忘れたっていうじゃない」
「ほんと困ったな。最初はしっかりした子に見えたんだけど。面接でも張り切ってたし、いい子そうに見えたって総務の武田部長も言ってたよ」
「本当に? でもなんか変よあの子。最近会話もぎこちないし、目も合わせないのよ」
「取り繕うのが上手かっただけかもしれないぞ。今ちょうど化けの皮が剥がれてきたんだな」
「そういうの、一番厄介なのよね」
備品の補充をしていた時、偶然そんな会話を耳にした。自分は完全に異物になってしまったのだと確信した瞬間だった。
増え続けるミス、回らない頭、眠れない日々。大量のエナジードリンクとコーヒー、そして時折現れるミサキの影。すべて自分が作り上げた地獄だとわかっていながら、つい、誰かを責めたくなる。誰かを攻撃したくなる。誰かに攻撃されそうな気がする。誰かに攻撃されそうだから、先にぶっ叩かなきゃいけないような気がする。
いつも何かに怯え、何かに怒り、自分を責める。そんなことを幾度となく繰り返しながら、私は中身のない日々を何とかやり過ごすようにして生きていた。
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