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崩壊
しかし、そんなふざけた日々がそう長続きするはずもなかったのだ。
まだ蒸し暑さの残る十月の半ば。滝のような雨が降る、薄暗い午後だった。カウンターでいつものように妙な輩に絡まれた時、終わりは訪れた。
「ちょっと、なんなのこのふざけた予約票は? おかしいわよ」
真っ黒な服に身を包んだ痩せた老人だった。その風貌は、まるで死神ように見えた。
「はい。予約に間違いがありましたか?」
「字が小さくて読めないのよ」
老人は吐き捨てるようにそう言うと、くしゃくしゃになった予約票をカウンターの上に放り出した。広げてみると、至って普通の予約票のようだった。
「手書きでよろしければ、大きな文字で書き直しますが、いかがなさいますか?」
「ええ」
老人は一言返事だけして、勝手にカウンターの椅子に腰かけてしまった。私はプリンターからコピー用紙を引っ張り出すと、黒のマジックペンで予約日を書き写し、老人に手渡した。
老人は大げさに目を細め、これでもかというほど紙を顔に近づけた。
「見えないわよ! もう、あなたとは違うんだからね。ちょっとは人の気持ちくらい考えたらどうなの? 役立たずねぇ」
目の前で紙が丸められ、私の頭目掛けて飛んできた。痛くはないが、死ぬほど頭にきた。
「全く、最近の娘は融通ってものを知らないんだから」
老人はそう言って溜め息をついた。死ぬほど苛ついたが、私に口答えする権利はないのだ。ただ、どういうわけか、無性にカフェインが欲しくなった。
「耐えろ」「抑えろ」と必死に自分に言い聞かせる。この人にだって色々な事情があるはずだ。ミサキのように病気で悩んでいるのかもしれないし、本当に目が悪いだけかもしれない。
私はもう一枚紙を取り出し、倍の大きさで、でかでかと書き直した。わかりやすいように、重要な部分には赤ペンでアンダーラインを引いた。
「申し訳ございません。これで大丈夫でしょうか?」
必死に笑顔を作る。頼むから納得してくれと祈った。
だが、無駄だった。
「あー見えない。いらないわよ、こんなもの」
老人は受け取りさえしなかった。凄まじい勢いで頭に血が上るのが、自分でもわかった。全身が熱くなり、腹の底から得体の知れない何かが込み上げてきた。今まで味わったことのない感覚だ。不快で不快で仕方がない。
「……では、どういたしましょうか」
声まで震えていた。
「もういい。二度と来ないわこんな病院」
老人はそう言って乱暴に席を立つと、会計窓口の方へ行ってしまった。
私は暫くの間呆然としていたが、これはまずいと思い、慌てて老人の後を追いかけた。自分のせいで大事な患者を一人失ってしまう。自分のせいでまた問題が起きてしまう。そう考えただけで動悸がして、吐きそうになった。
――お前のせいだ。
――周りに迷惑ばかりかけて、恥ずかしくないの?
ミサキの声が聞こえた気がした。もう誰にも迷惑をかけてはならない。役立たずな自分が赦せない。だって、だって私は――
「すみません!」
会計窓口に老人の姿を見つけ、駆け寄ろうとした。しかし、私の目に飛び込んできたのは信じられない光景だった。
「看護婦さんが予約票出し忘れちゃったみたい。こっちでも出せるわよね?」
老人が窓口で受け取っていたのは、普通サイズの文字が書かれた予約票だった。
「大変申し訳ございませんでした」
「いいのよ。さっき向こうのカウンターの子にも頼んだんだけど、こっちで頼めって言われちゃったもんだから」
右のまぶたが痙攣し、頭の中で何かがプツンと音を立てて弾けた。いつもの自分ならこんなくだらない事は気にも留めなかったはずだ。「しょうがないお婆さんだな」で済んだ。でもこの時は違った。目に映るもの全てが憎らしかった。
「ふざけんなよクソババア」
気が付くと、私は老人に詰め寄り、ありったけの暴言を吐いていた。自分でも何を言っているのかよくわからなかった。自分が自分であるという実感すら失い、ただただ暴力的に怒りをぶつけた。
はっと我に返った時にはもう手遅れで、私は医事課から飛び出してきた大川主任とたまたま通りかかったナースに取り押さえられ、強制的に誰もいない会議室へと引っ張り込まれた。テロリストにでもなった気分だった。
「クビだよ。こんなの」
会議室に入るなり主任は私にそう告げた。
特に驚かなかった。幸か不幸か、自分はそれだけのことをやってしまったのだと理解できる程度の冷静さは残っていたのだ。
「残念だけど、もうさすがに庇いきれない。最近ヘンよあなた。師長さんに伝えておくからね」
主任に続いてナースもそう言った。食堂で見た覚えのある顔だった。私は彼女の名前を思い出そうとしたが、一文字たりとも浮かんではこなかった。
その日を境に、私の使えるロッカーは更衣室から姿を消した。完全に居場所を失ったにも関わらず、涙は一滴も出てこなかった。異物になってしまった人間は、速やかに排除されなければならない。私は完全な異物になったのだ。怒りも、疑問も、後悔も、まるで沸いてこない。むしろ、これは夢の中のミサキが私のために用意した、正しい結末のようにすら思えた。
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