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夜の十時頃までだらだらと酒を呷っていると、テーブルの上のスマホが震えた。可奈からの電話だった。
「今日はありがとね。大事なお休みなのに来てもらっちゃって」
こちらの機嫌を窺っている、もしくはかなり気を使っているような声色だとすぐに察した。昔から可奈は変に感が鋭いところがあった。
私を缶を力強く握りしめながら、この電話は取るべきではなかったかもしれないと思った。
「ううん。全然」
不自然にならないように、なんとか私は答えようとした。間違っても酒に酔っているなんて思われないように。しかしそううまくいくものではない。可奈の言っていることが殆ど頭に入ってこないのだ。言葉は聞こえているし、知らない単語は一つもない。それなのに、言葉は言葉としての役割を果たしていない。ただのぼやけた「音」でしかなかった。これではあの時と同じだ。
「理英? 本当にどうしたの? 何かあったの?」
可奈の中にある私のイメージを崩したくない。正常だった過去の自分を、嘘にしたくない。塗り替えられるのが怖い。
「大丈夫。うちに同僚がいて、ちょっと酔ってるだけ」
いっそ、この子に全部ぶちまけてしまえたら良かったのかもしれない。優しい彼女ならきっと受けとめてくれただろし、相談に乗ってくれたはずだ。自分のことを心配してくれる友達がいる時点で、私はとても恵まれた状況にあった。頭ではわかっていた。それでも、友達だからこそ言えない、言いたくないという歪な感情の方が遥かに大きく、私はまた見え透いたはぐらかし方で可奈を突っぱねることしかできなかった。かつてのミサキも、こんな風だったのではないかと思いながら。
「そう? おせっかいかもしれないけど、もし何かあったら……ね?」
「うん。ありがと」
電話を切ると、部屋の中が不気味なくらい静かになった。今までに感じたことのない奇妙な静けさに、私は暫くの間ソファーの上で呆然としていた。何だか自分の存在が酷く曖昧なものになっていくような気がして、それが無性に悲しかった。普段なら傷つかないであろうほんの些細なことでさえ、とてつもなく悲劇的な出来事のように思えた。
アルコールを一気に体内へ流し込み、まぶたを閉じると、意識がすうっと無機質な暗闇の中に溶けていく。
ぺたり、ぺたり……
薄暗い廊下から、裸足でフローリングを歩く音が聞こえた気がした。耳の奥でキーンという耳鳴りのような音が鳴り響き、身体はソファーに張り付けられたように動かなくなった。
「お前なんかと一緒にされたくないんだけど」
姿がよく見えないほど離れているのに、その声は耳元で聞こえるような気がした。また、ミサキが来た。すぐにそう思った。
「自分の保身しか考えてないんだもん。そりゃ悲しいよね」
私はぼやけた視界の中で必死にミサキの姿を探した。すぐそこにいるはずなのに、見つけられない。
「お前が他人のために何かできたことなんて、一度もない。いつも自分、自分、自分。そればっかり」
目を凝らしてみると、暗闇の中にミサキの影がぼんやりと浮かんでいるのがわかった。
「この世の終わりみたいな顔してるけどさ、周りから見たらお前なんか不幸でも何でもないから。ムカつくからその悲劇のヒロイン気取りやめて。だから皆に嫌われるんだよ」
アルコールを大量に飲んだせいか、今回の彼女はいつにも増して饒舌だった。これは泥酔した自分が見ている幻だとわかっているのに、私は彼女の口を塞ぐことができない。いや、もしかしたら彼女は幻ではないのかもしれない。冷たい汗が頬を伝う。
「恥ずかしい人。何もかも自己責任でしかないのに。どうしてそんなに頭が悪いの? 前はそんなんじゃなかったじゃん」
ミサキは更に話を続けた。
「おんなじ所をぐるぐる回って、そんな調子で、いつまで生きていられるかな」
黙って。
私は頭の中でそう唱えた。
「そんなにミサキに謝りたいなら、いっそ死んで会いに行けばいい」
黙れ。黙れ。黙れ。
繰り返す内に、指先に微かに力が入ったのがわかった。その瞬間、動かせると確信した。
「ミサキが後先考えずいきなり死んだりするから!」
私は思い切り叫んだ。
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