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命日までの十日間、私は実家でおとなしく過ごした。猿や猪が頻出するような山中の小さな集落だ。落ち着く場所だが、何もない。五六歳の母は今年で九〇になる祖母と愛猫のマルを世話しながら生活している。
「さっきまでべったら曇りだったのに、急に晴れちゃってまあ~」
よく晴れた昼下がり、物干し台の上でマルを撫でていると母が洗濯物を干しにやって来た。カフェインの摂取を減らしたことによる離脱症状で頭が痛かった。
「お父さんがいなくて良かったわ。いたらきっとめんどくさかったでしょ」
そう言ってしわを伸ばす。湿った衣類から柔軟剤の匂いがした。私が子供のころから変わらない、甘ったるい匂いだ。
海外へ出張中の父は、二年半くらい前から殆ど家に帰って来ない。仕事熱心の真面目な人間だが、肩書で他人に優劣をつける癖があった。二浪してなんとか良い大学を出たらしいが、頑固というか、古くさいというか、とにかく昔から私とはあまり馬が合わなかった。私が大学へ進学する時も逐一口を挟み、第一志望だった大学の願書も勝手に破棄してしまったくらいだ。
そんな父が「娘が仕事をクビになってニートになった挙句カフェイン中毒で病院に運ばれた」なんて知ろうものなら、きっとショック死してしまうに違いなかった。
そもそも、病院で働いていることすら父には内緒にしていたのだ。今頃、父は異国の地で、私が自分の進めた大学へ通っているものだと信じて仕事に勤しんでいることだろう。
「本当の事聞いたら卒倒するかもね」
私は言った。
「まったく……いずれバレる嘘なんだからね」
「平気だよ。その頃には、お父さんもう私に興味無くしてるだろうし。向こうで結構重要な仕事任されてるんでしょ」
「そうだけど、就職の時期になったらまた色々口挟んでくるでしょ。あの人も昔色々あったみたいだし」
「そしたらもう、今度こそ遠くへ逃げる。絶対に来られないようなとこへ」
思いつきでそうは言ったものの、どこへ逃げるかなんて具体的なことは何一つ考えていなかった。むしろ、どこにも逃げられないし、逃げてはいけないような気さえした。
「あーあ。こんなに頭の悪い大人になる予定じゃなかったのに……」
私は独りごとのように呟いた。
「そんなこと言ったってしょうがないじゃない。もうなっちゃったんだから。――っていうかあんたねえ。自分がどれくらい弱ってるか気付いてないでしょ」
「は……?」
「心を病んでるってこと」
唐突に投げかけられた言葉に、少し頭が混乱した。
心を病んでいる?
「別に、自傷とかしてないし、自殺しようとも思ってないけど? いじめられたわけでもないし。まあ、クレーマーには好き勝手言われたけど……」
「そんなことしてなくたって苦しんでる人だっているわよ。これ言うなって言われてたけどね。病院まで運んでくれた子、あんたが日に日にやつれていってるって心配してたよ。様子がおかしいから気にしてあげてくれって。あたしも病院であんたの顔見てびっくりしちゃった。一瞬ゾンビウィルスに感染したのかと思ったんだから。今度あの子に顔見せに行きな。電話だけじゃなくて」
「ええ……そんなに変わってないと思うけど。病院に勤めてる頃、もっとやばそうな人なんていっぱいいたし、それにミサキだって――」
私が言うと母は大袈裟にため息をついた。
「やだ。もしかしてあんたの基準って、全部ミサキちゃんなの? そういうのはね、他人と比較して結論付けるようなもんじゃないの。あんたが何も苦しくないって言うならもうそれでいいけどね、他人と比較せずに自分を測りなさいよ。あんたはあんたでしょ」
何か正しいことを言われたような気がしたが、私は急に眠くなってしまい、母の言葉にあくびで返事をするのが精一杯だった。
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