冷たい半身

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冷たい半身

 夕方、やっとの思いで家に帰って来ると、空腹のあまりリビングの床にしゃがみこんだ。太陽は既に西の空に沈み、辺りは薄暗くなっていた。 「ずいぶん遅かったじゃないの。どこまで行っちゃったのかと思った」  夕飯の支度をしていた母がぎょっとした様子で言った。私はぐったりとうなだれていた。 「なあに、具合でも悪いの?」 「いや」 「じゃあ何よ」 「お腹減ったの」  私の言葉に母はかなり驚愕したらしく、目玉をひん剥いて「やだ珍しい」と叫んだ。 「あんた最近全然食べないせいで頬がコケて来てたからね」  空腹を感じたり、何かを食べたいと思わなくなってどれくらいの月日が経っていたのだろう。ちょっと考えればおかしいとわかることでさえ、少し前の私は気にも留めていなかったのだ。  その晩は、久々に運動したせいかすぐに寝付くことができた。何の妨げもなく、自然な眠りの中に落ちていくのはいつぶりのことだろう。薄れる意識の中で私は少しだけ感動し、そしてまたあの夢の中へと潜っていった。  気が付くと、いつもの葬儀場にいた。ただ、これまでとは少しだけ様子が違っているようだった。  部屋の中には自分以外に誰の姿もなく、ミサキの遺影が色鮮やかなリンドウの花の中にぽつんとあり、その下に蓋の閉まった棺が置かれていた。  私はゆっくりと棺の元へ歩み寄った。棺の前まで来ると、膝を折って堰を切ったように泣いた。泣きながら、昼間の出来事をすべて棺の中のミサキに話した。伝えられることは全て伝えた。心のどこかで、彼女に話せるのはこれが最後のような気がしていた。 「泣くな。気持ちが悪い」  突然、棺の中から声がした。とても馴染みのある、冷たい声だった。私は棺のふたを勢いよく取り外した。大きな音が誰もいない式場に響き渡る。  中に入っていたのは、ミサキではなかった。薄汚れた制服に身を包んだ自分の遺体がそこにはあった。 「そうか。結局、全部私の妄想だもん。本物のミサキがいるはずない。死んだ人間には何もない。何も言えないし、何も聞けない」  私はそんなことを言って棺から顔を上げた。言葉にしてしまえば何てことのない、薄っぺらい真実だった。  ミサキの遺影は、いつの間にか私の遺影に変わっていた。撮った覚えのない写真だった。怒り、憎悪、悲しみをすべて混ぜ込んだ真っ黒な瞳が、私の方をじっと睨んでいる。彼女は、私自身が自らを罰するために生み出した化け物であり、これまでずっと見てきたものだった。そしてその化け物を葬り去ることができるのは、他でもない私自身であるということもちゃんと理解していた。  遺体の瞼がゆっくりと持ち上がり、濁った眼球が露になる。棺の淵に手を掛けると、灰色の蔦植物のようなツルが目にもとまらぬ速さで部屋中にわさわさと伸び広がった。私は驚いて棺から飛びのいた。ツルは色鮮やかなリンドウの花も瞬く間に覆い尽くし、すべてを無機質な灰色に塗り潰していく。 「お前みたいな人間が生きているからいけないんだ」  遺体はそう呻いて棺の中から這い出ると、蛇の様に床を這いずりながらこちらに近づいてきた。そのあまりの異様さに、私は急に恐ろしくなって衝動的にポケットの中をまさぐった。すると何か固いものが手に触れた。取り出してみると、それは彗星蘭で貰ったマッチ箱だった。  私は咄嗟にそのマッチを擦った。灰色に呑み込まれた部屋の中に、真っ赤な炎が色鮮やかに灯される。とても綺麗な炎だった。私は何の躊躇もなく、火の点いたマッチ棒を床に落とした。 「さよなら。でも、ずっと忘れない」  自然とそんな言葉が零れた。落とされた炎は、部屋中に張り巡らされたツルに沿って滑らかに走った。あっという間に、すべてが力強い炎に呑まれていく。そこには熱さも苦しさもなく、ひたすら心地よい温かさに包まれていた。  遺体は炎に焼かれて泣き叫び、私は逃げるわけでもなく、この世界のすべてが焼き尽くされるのをただ静かに見守っていた。  やがて、私の意識は温かい炎の中に溶けた。  
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