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通用口を出て、管理棟にある食堂へ向かう。ついさっきまで降っていた雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から作り物のような青空が顔を覗かせていた。
嘲るような青空と明るい日差しが眼球に沁みた。爽やかな風が頬を撫でる。
なんて、喉かなのだろう。箱の内側と外側とで、どうしてこんなに世界が違うのだろう。どちらも同じ次元に同時に存在している筈なのに。そう思うと、胸の奥から自然と虚しさが込みあげてきて、何もかもクソのように思えた。
冷房をガンガンに効かせた食堂のテーブルには六人のナースがいて、楽しそうにお喋りしていた。私はそこへそっと近付いて「お疲れ様です」と声を掛け、席についた。うち二人が、目線を明後日の方向に向けたまま、「お疲れ」とだけ早口で返した。
「三十木さん、今日どこの担当でした?」
私は隣に座っている先輩の三十木さんに声を掛けた。別に、気になったから訊いたわけではなかった。全くコミュニケーションを取ろうとしない人間は孤立することを知っているからだ。ここは職場であって学校ではない。コミュニケーション不足は、いずれ自分の首を締める。
「今日は整形外科」
彼女は醤油味のカップラーメンを啜りながら答えた。
「オルトって大変そうですよね。患者さんの補助とか」
私は何とか言葉を捻り出した。「何か喋らなくては」という思いが完全に頭の中を支配している。
「そうねー。今日来た九八歳のお爺ちゃんなんか、自分で殆ど動けなくて大変だった」
「わー、すごい長生きですねー」
「でも、言葉ははっきりしてるのよ。すごいなーと思って。理英ちゃんは今日どこだった?」
「えーっと、私は第二受け付けです」
当たり前のように返事をする三十木さんの姿に、私はほっと胸を撫で下ろし、冷凍食品のパスタが入った弁当箱のふたを開けた。良かった。会話が成立している。私はおかしくない。
「わあ、おいしそう。それ、自分で?」
三十木さんは唐突に私の弁当箱を覗き込んで言った。
「えっ、はい!」
「えらいねー。私なんていつも冷凍食品だよ」
「ん……?」
意味を取り違えてしまった。どうやら三十木さんの言った「自分で?」というのは「自分で茹でたのか」という意味だったらしい。 私は冷凍食品を移し替えただけだ。私は間違いを訂正しようとしたが、少し考えてやめた。その方が返って良いような気がした。
「あたしなんかコンビニ弁当か冷凍をチンするだけよ」
「ちゃんとしてる~。私なんてまだママに作ってもらってますぅー」
周りにいた他のナース達も私の方に注目する。しかし、困った。こういう時、どう反応するのが好ましいのか、何と言うのが普通なのか、よくわからない。
いつからか、自然な会話というものがよくわからなくなったのだ。ミサキが死んでからかもしれない。何を話すべきで、何を話さないでおくべきなのか、私はいつも手探りだ。きっとあの時に、私の言葉は死んだのだろう。ただでさえ「普通でいること」にこだわりがちな私だったが、ミサキの死をきっかけに、ますます普通から遠ざかってしまったような気がした。
「……あはは」
結局、私はそこから話を広げるわけでもなく、引き攣った笑顔を向けることしかできない。
「そういえば古見さんって独り暮らしなんですよねぇ?」
斜め前に座っていた新井さんがオムライスをほじくりながら尋ねてきた。
「はい。独り暮らしですけど……」
「実家、遠いんですか?」
「いや、そんなに離れてないですよ」
「えっ、じゃあなんで実家から通わないんです?」
「それは……」
私が答えようとすると、他のナース達もこちらを見た。そんなに気になる話でもないだろうに。正直、聞かれたくない話だった。
「家がすっごく山奥で、駅からも遠いし、車は親が使ってるので――」
必死にそれっぽい言い訳をしたが、あまりいい気分ではなかった。本当はもっと違う理由があったのだが、言えるはずもなかった。
私は会話の隙間を縫って昼食を口に運んだ。ついさっきレンジで温めたパスタはいつの間にか冷めきっていた。
別のナースが「私も山奥だよ。この前猿の大群が出たの!」と話に乗っかり、話はまるで魔法のように膨らんでゆく。私は振り落とされまいと必死に話にしがみつこうとしたが、その後誰かと会話が噛み合うことはおろか、目線すら合わせられずに昼食を終えた。
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