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事故
部屋に戻ってくると、まだ隣室の口論は続いていた。
「もう終わった事だろ。もう何も心配する事はないのに、どうしてあんなこと」
「自分でもわからない。ただこうしなきゃって……」
くぐもった声が薄暗い部屋に重く響いている。
私はキッチンに朝食べ損ねたカップ春雨が置いたままになっていたことを思い出し、お湯を沸かそうとガスコンロの火を点けようとした。しかし、どういう訳か火は点かなかった。
「うそ。何で点かないの?」
故障かと思い首をひねっていると、ふいに誰もいないはずの寝室に人の気配を感じ、背筋が凍りついた。
いつの間にか隣室の口論も聞こえなくなり、耳を済ますと何かが軋む規則的な音だけが微かに聞こえていた。私はそのまま寝室に向かって廊下を歩き続けた。やけに長い廊下だった。歩みを進めるごとに音は大きくなっていった。
外の街灯が点灯し、窓から青白い光が差し込んだ。暗い寝室の天井から、垂れ下がった何かが振り子のように揺れているのが見える。人の足の様にも見えた。間違いない。あれは――
私は駆け寄ってその物体にしがみつこうとした。
「ミ――」
言いかけた瞬間、足元のフローリングがバリバリと音を立てて崩壊し、私は真っ暗闇の中へ真っ逆さまに落下した。
眼下には夜の海が広がり、黒い波がまるで生き物のようにうねっていた。腐臭のような嫌な臭いが鼻をつく。それが死の臭いだと瞬時に私は理解した。
――あっ、死んじゃう。でも、別にいいや。
私は何の疑問も抱くことなく、覚悟を決めて瞼を閉じた。それが自分にふさわしい結末のように思えたのだ。
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