名を呼ぶ声

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 誰かが自分の名前を呼んでいる。その声はとぎれとぎれでとても掠れており、何と言っているのか判然としないが、確かに名前を呼ばれているとわかった。 必死に目を凝らし相手を見つめる。辺りは白い光の中で、眩しさに目を細める。顔はよく見えない。だが、それは酷く懐かしい声だった。 「一…ろ…」 なんだ?誰が俺を呼んでいる? 「…一…生きろ…」 (「お前だけは生き延びねばならない…」)  目を覚ました。  見慣れない木板の天井、日差しが透けて白く輝く障子戸の一間に自分は寝ていた。酷く静かだ。薄暗く湿っぽい小さな畳部屋だったが、ひんやりとすんだ空気が満ちている。  身体を起こそうとするがどこもかしこも気だるく億劫だった。頭もぼんやりとしている。ここがどこだか、自分がどうしてここにいるのかわからない。もっと言うと、自分が何者なのかもわからなかった。自分がいい歳をした男であることはわかる。しかし、なんという名前で今まで何をしてきたのかてんで思い出せなかった。そのせいだろうか…あんな夢を見たのは…  しばらくそのまま天井の木目を見つめていると、とたとたと廊下を歩く音がして、「失礼します」と年若い女の声がかかり、障子戸が開いた。「お目覚めですか!」年若い女と言うよりもまだ子供だ。臼桃色の小袖にえんじの帯で、髪は束ねているだけであった。驚きで丸まった目と小さな団子っぱなで美人とは言えないが明るく気立てのよさそうな娘だった。 「和尚様をお呼びしますね!あ、なにか食べ物をお持ちしましょうか…お召しかえもしたいかしら…とにかく、これ、火鉢ですんで、寒いので置いときますね!」 (よくしゃべる…)  娘は一息に言うと足元に火鉢を置いて慌てて立ち去ろうとした。 「…ここは、どこだ?俺は…一体何をして…」  夢の中の誰かと同じ掠れた声が出た。娘は一瞬とまどいと哀れみの表情を浮かべるが、ぐっと何かを飲み込んだ風にして笑う。 「何もご心配ありませんよ」そして、枕元に歩み寄り「白湯をいただかれますか?酷く喉が乾いているようです」と伏せた湯飲みに急須から白湯を注ぐ。娘の手を借りて身を起こし、湯飲みを受けとろうと指先が娘の手に触れた。その瞬間、娘が怯えたように湯飲みから手を離す。白湯が布団に零れて湯呑が転がった。「申し訳ありません!」慌てて拭こうとする手が震えている。視線に気づいて手の震えをなんとか抑えようと両手を必死に組み合わせた。 「…どうした、寒いのか?」 俺の言葉に娘は泣きそうな顔をあげた。 「いえ、いいえ…」 「…先程、和尚と言ったな…それがここの主か?」 こくこくと娘は頷く。 「そうか…呼んできてくれるか?」 「はい…あ、寝具を替えますね…」 「起きるから片付けてくれ」  娘が布団を抱えて出て行った部屋の中、火鉢の炭の赤色を見つめながら、なぜ、利発で明るい少女が自分を怖がるのか考えた。自分はなにかとんでもないことをした罪人で、ここに匿われている。そんな気がした。 萎えた足をゆっくりと動かし立ち上がる。娘が閉めて行った障子戸に手をかけた。 (「一…っ」)  また形にならない名前を呼ぶ懐かしい声が頭に過る。夢ではない。これは己の記憶だ。ほとんどが白で塗りつぶされてしまった己の記憶。この戸の向こうに見る景色に答えはあるだろうか。節だった指先を取っ手にかけて戸を開く。 そこは何もなかった。 どこまでも続く真っ白な世界。 遠くに山々の稜線が辛うじて見てとれるが、綿埃のような雪がしんしんと降って視界を白が覆う。夢と同じだ。 (なぜ思い出せない) 誰だ?誰が俺に生きろと言っている? 忘れてはいけないものだった筈だ。なぜかそんな気がした。しかし、思い出そうと焦る気持ちとは裏腹に、ゆっくりゆっくり降る綿雪は大事ななにかを覆っていく。 気づかぬうちに頬に涙がつたった。  丘の上に二騎の馬が姿を現した。馬上には青年が騎乗している。二人は馬から降りて広がる雪原に足を下ろした。その片方が柔和な双眸をすっと細めて「…見事になにもないな」とにべもなく言った。 「…お前はほんとに事実しか口にしないな紀之介」  隣に立つもう一人の青年が露骨に眉を顰める。紀之介と呼ばれた青年はその様子を気にすることなく馬の首を撫でながら相手を横目でちらりと見た。 「そういうお前こそ、土地の者の前であれこれ非難するものじゃないぞ佐吉」  今朝方の己の態度を指摘され、佐吉はふてくされたようにそっぽを向いた。 「わかってるさ。…この広大な土地は役にたつ。雪に閉ざされ、交易がままならないのが惜しいな…」 どうするか、そうか、海路を使えば…完全に己の思考の中に入ってしまった相手を半ば呆れ、されど、こういう実直で周りのものを気にしないほどに懸命になってしまうところを好ましく思う。 「…お前のそういう姿をもっと皆に知ってもらえれば人受けもよくなるだろうに」 独り言だったが聞こえてしまったらしい。ちらりと鋭い視線が向けられ 「…俺のことなどどうでもよい。俺はあの方の為になるよう動いているだけだ。俺の人受けなど気にしていても仕方ない」と吐き捨てた。 「また、そういう…いざというとき、お前のことを誰も助けてくれなくなるぞ」 「お前がいるだろう」 さも当たり前のような顔でそう言われ、一瞬あっけにとられ、次第に面白くなって声をだして笑ってしまった。その様子を毅然と見つめる生真面目な友人の様がまた面白かった。ひとしきり笑って、相手の真剣な眼差しを見つめ返した。 「…仕様がないな」 その答えに佐吉は、少しだけ、本当に辛うじて見て取れる程度に表情を緩めて頷いて、そろそろ戻ろうと馬に跨る。  紀之介はもう一度雪原を振り返る。この白い世界は始まりと終わりの世に似ている。今、自分たちが見つめているのは始まりの方。しかし、いずれは何もかも失った白い世界を目の当たりにすることもあるだろう。共に生き、共に死ぬかもしれないし、どちらかが死に、どちらかが生きなければいけない状況になることもあるだろう。その時、一人でこの白を目の当たりにするのは少し辛いような気がした。 「三成」 呼び慣れた幼名ではなくあえてその名を口にした。そうするべきだと思った。 「…なんだ急に」 「いや、なんとなくだ」 「わけがわからん」 この得体の知れない不安を言葉にするのは憚られた。三成の視線を受け止められず足元を見つめる。馬上から小さな溜息が漏れた。 「行くぞ、吉継」  友の名を呼ぶ声に顔をあげる。三成はちらりと目を合わせただけで背を向けた。その後姿を少しの間見つめ、吉継は後を追った。
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