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「あ゛ーっ、終わんねぁ〜!!」
デスクの上で、私は絶叫した。
取引先別に綴じてある、鬼のようにぶ厚い価格ファイルを抱えて突っ伏す私に、声を掛けてくれる人は誰も居ない。
それもそのはず、只今の時刻は22時32分。私の故郷じゃ、良い子は寝てなきゃナマハゲに叩かれる時間だわよ。いや、ナマハゲだって労働時間外だよ。
そんな草木も眠るお肌の曲がり刻に、なぜ私のようなうら若き33歳のレディが、だだっ広いオフィスで独りデスクワークに勤しんでいるのか。
その答えは、仕事のミスを隠すため、なのよね。
ウチの会社は某国産家電メーカーの子会社で、半導体部品を仕入れる部署の私は課長さん。
で、今回はウチの課の新人がやらかしてくれたのよ。
毎朝9時に自動的に部品メーカーへ発注書が出されるシステムを使ってんだけど、その元となる発注データを新人に作らせたら、これが入力ミスばっかりで殆どゴミレベル。
しかもウチと取引してる部品メーカーは300社近くあって、年度毎に価格設定が変わる取引先もあるのね。冒頭で、私が行き倒れてた理由がココにあるわけ。
普段ならミスの修正なんて本人にやらせるんだけど、新人が出してきた購買申請書には、私の承認印が押印してある。て事は、盲判を捺した上司のミスになっちゃうのよね。
こんな事が会社に知れたら、管理者としての私の評価は落とされるだろうし、何よりこんな恥ずかしいミスを周囲に知られたくない。
だってもっと出世する筈だし、私は。
いつの間にか時計の針はてっぺんを過ぎていた。
人気のないオフィスは空気の乾燥が激しいし、旧型のノートPCから降り注ぐブルーライトをたっぷり浴び続けてるし、もう超絶目がシパシパする。
それに他人のミスの修正って結構なストレスなのよね。流石に疲れてきたわ。
あーもうヤダ、なんか髪が煩い。特に前髪がウザい。
最近美容院行ってないからなぁ、結構伸びてきちゃってるわ。取り敢えず今だけ輪ゴムで括っとこ。
けどあとで解いた時に変なクセつかないかな――とかそんなのどうでもいいんだよ!
今はこのデータ修正に集中しなきゃ! 残りはあと少し! こんなミス、何が何んでももみ消すんだ!!
「けっぱれおい! けっぱれおい! けっぱれおい! けっぱれ…」
自分の耳に聞かせるように、私は独りブツブツ呟いた。
「ぅ終わったぁ〜いっ!!」
無人のオフィスに再び私の声が響いた。遂に全288件の発注データを修正し終えたのだ!
課内の共有フォルダに修正した発注データを保存して、私は喜びと達成感の余韻に包まれながら、ふぅと息を吐いて前髪の輪ゴムを解いた。
我ながら完璧な仕事したわ。明日…てかもう今日だけど、朝9時になったら、自動的に発注データが各メーカーに飛んで無事完了。
これでもう安心。私の立場も安全。
それにしても、目の疲れが半端ナイ。
眼精疲労を癒すという眉頭のツボを圧しながら、私ももう歳かなぁ、なんて思ってしまった。
短大進学を機に上京して、そのまま東京で就職してもう13年。同期入社の女子社員たちは寿退社だの、スキルアップの転職だの、自分探しの留学だのと理由を作って会社を去って行き、今いる女子社員の中で私は古株の部類になってしまった。つまり“お局様”ってヤツだね。
そりゃあ私だって転職を考えた事は何度もあるよ。でもその度に、昇給だの昇格だのと高待遇を与えられて、結局会社に引き止められちゃった。
出世に釣られるなんて浅ましいかも知れないけど、実際、先輩たちとかには言われたけども、結果的に私には女性課長って肩書きが着いたのよね。実力を認められたから。
だって同僚たちの中で私が一番仕事が出来るし、同期入社の腰掛け連中と違って貢献してるもんね、私は会社から必要とされているんだ。
だから社畜と言われたって構わない。むしろ選ばれた人間として誇りに思うよ。
「…………帰るべか」
ノートPCの電源を落として、自分のデスクの引出しに仕舞った。
使った価格ファイルは資料棚に戻したけど、無造作に突っ込まれてるファイルの乱れが気になったので、年度順にきちんと片付けてから、私は会社を後にした。
時刻は1時07分。終電なんてとっくにない時間だけど、そこは管理職。私には社用車が支給されてるんだ。
本当は私用で使っちゃいけないんだけど、もうこんな時間だし、なんたって女子だし、今日は乗って帰っちゃお。
それにしてもマジで疲労困憊だわ。
早く自分のマンションに帰って熱いシャワーを浴びたい。いやその前に何か食べたい。
駐車場へ向かう途中、コンビニに寄ろうと交差点を曲がった。
「えっ! 開いでねぁ??」
そのコンビニは昼休みに寄った時は混雑していたのに、今は灯りが消されて閉まっている。これも“働き方改革“ってのの影響なのか。
「あっちゃー、なじょすべか――ひっ!」
お店を覗いて、私は思わず悲鳴を上げてしまった。ガラスのドアに幽霊が映り込んでいたからだ。
ざんばらに乱れた髪と、大きく見開いた眼。そして血色の悪い顔。
それは幽霊と言うよりも、ナマハゲのような、自分の姿だ。信号の色に合わせて赤や緑に照らしだされている。
そのおぞましさに一瞬怯えたものの、次第に目が慣れてきて、段々腹が立ってきた。
そもそも何で私がこんな目に合わなきゃならないのか。
「……なしてよ」
何で他人のミスの尻拭いなんかさせられてんのか。
「なしてぎぢんと見直ししねのよ!」
何で盲判なんか捺しちゃったのか。
「なしてぎぢんとチェックさしどがねがったの!!」
何で皆みたいに転職しないで残っちゃったのか。
「皆しておいだげ置いでげぼりにして、ひどいでねぁか!!」
涙が滲み出すのを堪えて早歩きで駐車場まで行き、社用車に乗り込んで乱暴にドアを閉めた。エンジンをかけて、泣く声が自分の耳に届かないようアクセルを踏んで空吹かす。
都会で働く事に憧れて東京にやってきた。
仕事は大変だし手こずる事も多いけど、それをこなしていく自分が誇らしいし、頼られるのも嫌じゃない。職場での地位も収入もまあまあだ。
なのに私、何でこんなに寂しいんだろう。
‘――いねぁが――’
何か聞こえたような気がして目を開けた。
いつの間にエンジンを切ったのか、私は運転席でハンドルを抱える姿勢で寝落ちしていた。
頬の涙はもう乾いているけど、涙の跡がカピカピしてちょっと痒い。
‘――ぐ子――ねぁがー‘
また聞こえた。車の外? 誰か叫んでる。
‘泣ぐ子はどぉごだぁー’
今度ははっきり聞こえた。本能的に分かる。アレが近付いて来る!
咄嗟に逃げ出そうと、震える手でイグニッションキーを捻った。でも車はキュルキュル鳴るだけで、エンジンがかからない。
「やばい、やばい、やば――ッ!?」
視線を感じて窓に目を向けると、その主が窓ガラス越しにこちらを覗き込んでいる。
「ィヤァァーッ!! おっがね! おっがね!! おっがねぃぃ!!!」
‘こっだぁ夜中に騒ぐんじゃねぁ! 近所迷惑だべが’
至極まともな理由で私はナマハゲに叱られた。
だけどちょっと待って。これって私が悪いのか? ビビらせたのはそっちでしょ??
だって真夜中の都会で突然ナマハゲに出会したのよ!?
そりゃあ本物じゃあないけど、角とか牙とか生えてるバケモノが、手にでっかい包丁持っててんのよ!!?
そんなのが寄って来んのに、黙ってられるわけないでしょ!!!?
‘今泣いでだのぁ、おめがぁ? 何があったのが?’
「……」
私は答えなかった。
それは恐怖のせいではなく、反発心からだ。
‘なして黙ってらの。おっがなぐでぇ、口ぎげねぁのが?‘
ナマハゲはずいっと顔を近付けて来た。
超絶怖い。窓ガラス越しとは言え、私の枯れたナマハゲモドキなんか足元にも及ばないレベルで怖い。
「やっ、こっちさ来ねぁでっ、人どご呼ぶがらね!! だ誰がぁっ助げでーっ!!!」
恐怖に大声を上げながら大焦りでカバンの中のスマホを探ったけど、見つからない!
そんなパニクる私を見て、ナマハゲは怒――らなかった。と言うか、微笑んでる?
いやお面だし、表情は変わんないんだけど、なんか、そんな気がする。
‘それでえ’
「へ?」
‘もっと人ごど頼れ。もっと素直んなれ。そいだばおめ、もっと楽ぐになれる’
「…な何を言――」
‘ほれ、楽ぐんなれ’
「え、え? えぇーっ!?!」
突然ナマハゲは持っていた包丁を私に向けて勢いよく振り下ろした。
バンッ!! と物凄い破裂音と共に車のガラス全部が割れ、その破片が尖い飛礫となって私を襲ってきた。
「ギャアァァーッ! 」
「課長!? どうしたんですか!!」
「ぁえ?」
若い男の声で呼ばれて、我に返った。
「あれ、なんで? ここ……私の席?」
私は自席で頭を抱えて突っ伏していた。
たった今この身に降り注いだガラス片なんかどこにも落ちてなく、もちろん怪我もしていない。
だけど鳩尾辺りが重苦しくて、なんか気持ち悪い。
「…え? 私って、ずっとここに座ってた?」
「わかりません。自分は今来たばかりなので」
そりゃそうだ。ずっと独りで仕事してたんだし。
じゃ今の何? 夢だったの??
って言うかデータは!?!
私のノートPCはデスクの引出しに――あった!
価格ファイルは――自席からだとよく見えないけど、資料棚はキレイに整っているみたい。だったら発注データは修正されてる筈だ!
私は天を仰いで感嘆の声を上げた。
「あーっ良がったぁ!!」
「課長、大丈夫ですか? もしかして徹夜で仕事してたんですか」
今気付いたけどこの青年、例の新人だ。
私が昨日と同じ服を着ているので、そう判断したんだな。
「ま、まぁね。色々やんなきゃならない仕事があったのよ。そう言う君もずいぶん早く来てるじゃない。何かあったの?」
「え、あ、はい…始発で来ました」
私が含みのある言い方をしたせいか、新人は逃げるように自分のデスクへ移動した。だけど居心地が悪そうにそわそわし始めて、とうとうバツが悪そうに告白し始めた。
「あの、課長。自分は今日の朝一で出す発注データを修正しに来たんです。実は自分、かなり入力ミスをしてまして…」
――知ってるよ。だから私が修正しといてやったわよ――
とか皮肉でも言ってやろうかと思ったけど、新人はまだ話し続けるつもりらしい。
「本当は昨日の夕方にその事は気付いてたんですけど、そのまま帰ったんです。自分で言うのもアレなんですけど、仕事は早い方なんで次の日早く来て直せば良いと思って。それでバレなかったら黙ってるつもりでしたし。けど今は自分が凄く恥ずかしいです。課長だって徹夜までして頑張って仕事してたのに、自分は仕事放置して同期との飲み会優先したりして。ホント俺って情けない奴です。本当に、大変申し訳ございませんでした!!!」
ストレートな謝罪にこっちが面食らってしまった。
若いな。
自信があるのは立派だけど、自己評価するには圧倒的に経験が少ないよ。
それに自惚れ屋っぽくみられる発言しちゃってるのにその自覚がないんだね。解るわぁ、コレって周囲とのコミュニケーション不足のせいなのよ。人から言われないと解かんないから。
この新人は確かに仕事が早い方だけど、早合点する傾向があるみたい。
活動的だから出世は早いかも知れないけど、今のまま成長しちゃったら得られるものが減っちゃうよ。
この私が言うんだから間違いない。
「自分でデータ修正しようとする君のその意気込みには感心するけど、昨日の内に気付いてたならもっと早く解決出来たんじゃないの? この事、誰かに相談した? 新人研修で言われたでしょ、仕事の基本は報告・連絡・相談の『報連相』って。君の教育係って誰?」
途端に新人は苦々しい表情になった。
「……自分には、主任です」
「え? あー、主任…ね」
主任とは、社内最年長のベテラン男性社員だ。
温厚で適当な就業姿勢で「どっちでも良いよ」が口癖の彼は、裏で『イエスマン』と呼ばれている。彼に教わる新人達は、世間一般の常識や道徳が身に着けられず、後々苦労しているらしい。
でも主任は今年度末で定年退職するって聞いてたけど、今も新人の教育係はやってたのか。
…あれ? て事は。
「君に発注データの入力指示したのって誰? いつ言われたの?」
「主任です。昨日言われました」
やっぱり前日に指示したのか。
何であの人はいつも余裕のない仕事の進め方するかなぁ。
「それって何時頃に言われた?」
「自分が得意先から戻った時に価格ファイルを渡されたので、確か……15時過ぎてたと思います」
「えっ、15時過ぎから入力し始めたの?」
「あ、はい。帰るまでにやっとけば良いって言われて、つい。すみません」
遅いと咎められたと思ったのか、新人研修で習った謝罪姿勢で頭を下げているけど、私は別の意味で驚いていた。
ウチの会社は18時定時だ。私が修正に3時間近くかかったものを、帰るまでにやっとけと15時過ぎに新人に渡すなんて、主任はかなり厳しい人だ。社内一番のベテランで何年も新人教育に携わったんだから、何時間かかる仕事か解っててやらせたでしょうに。
「そう言えば君、発注データが入力ミスしてるってどうして解ったの? 主任に間違い箇所を指摘された?」
「いえ、自分で気付きました。データ入力が終って、その報告に主任のデスクに行ったんです。そしたら主任はもう帰られてたんですが、資料棚に今年度版の価格ファイルがあったんです。だから自分は古い資料の価格を入力してしまったんだな、って」
私は言葉を失った。
いや、むしろ言いたい事が山ほど有るんだけど、それを伝えるための言葉が見付からなくて発言が出来ない。だから心の中で目いっぱい毒吐いてやる。
何だよっ、諸悪の根源は主任だったんじゃないか!! どんだけいい加減なのよあの枯れオヤジは!! ベテランが古い資料手渡すなんてしょぼいミスしてんじゃないわよ!!
しかも人に仕事させといて自分は先に帰ったって?! 新人教育係やってるくせに何それ、監督者として有り得ないでしょ!!
「課長?」
「ぁあっ?!?」
しまった! 頭が切り替えられなくてつい不機嫌な声出しちゃった。
「何、どうしたの?」
「いえ、ずっと黙ってらっしゃるので、具合いが悪いのかと」
「え? …あ、大丈夫よ。ありがとうね」
「もし眠かったら課長は寝てて下さい。自分は向こうの資料エリアで、なるべく静かに作業してますので」
新人は自分のノートPCを持って行き、資料棚の前で、あれ? ない、と呟いた。
私がさっきまで使ってた価格ファイルを探してるんだろうな。
「今年度版なら、一番上の段の左側よ。その棚、ファイルがぐちゃぐちゃに収まってたから年度順に並べ直したの」
「あっホントだ、有りました! ありがとうございます!!」
新人は棚から価格ファイルを抜き出して、やっぱり課長は流石ですね、と言ってる。新人のクセに上司を評価するなんて、やっぱり生意気だ。
でも不思議な事に全然腹が立たず、鳩尾の不快感が薄れてゆく気さえする。何でなんだろ。
「そもそもコレって、主任のミスよね。資料の渡し間違なんて指導者としての意識が低いからよ、怠慢が過ぎた結果だわ。君は今回の事、主任に文句言うべきよ。あ、それだと角が立っちゃいそうだから私から伝えるわ。私も課長として見過ごせないもの。それから、今後は何かあったら上司に言いなさい。早目にね」
自分の事は棚に上げたけど間違った事は言ってないつもりの私は、上司然とした威厳を新人に魅せつけてやった。
なのに新人は唖然とした顔で私を見て、持っていた価格ファイルの背表紙をこちらに向けて見せた。
「自分は自分のミスだと思います。背表紙にちゃんと年度が書いてあるのに、見落としたのは自分ですから」
その価格ファイルを側にあった長テーブルに置いて、新人自身もそこに落ち着いた。自分のノートPCを起動しながら、妙に嬉しそうな顔をしている。
「でも、ありがとうございます課長。自分は…いえ、俺は子供の頃から飲み込みは早いってよく言われるんですが、空気が読めないとも言われました。実は俺、機微に疎いところがあるらしいんです。だから思ったまま突っ走っちゃって、運動会のリレー競技で前走者を追い越したりしてました」
それは機微の疎さと関係ないのでは? なんて野暮なツッコミは憚られた。新人が私に心を開いてくれてるのが解かって、流石の私も、下手な言葉でこの場を茶化す事は出来なかった。
「だから俺、瞬時に理解して次の行動を判断出来る課長の事、尊敬します。それから俺のこんな無駄な話まで聞いてもらえてホント、嬉しかったです。まだ何にも出来ない新米の俺ですけど、自分がやれる事は精一杯頑張ります。課長、ご指導の程どうぞよろしくお願いします!」
新人はすっくと立ち上がり、私に向かって長テーブルに頭を着けるほどの最敬礼をした。
今年一番見事なお辞儀姿を見せられて、私は内心で動揺しまくっていた。
さっきまで厄介に思っていた新人はとてつもなく好青年で、徹夜でデータ修正させられた恨みなんかキレイに消えちゃったわよ。
と言うか、見方を変えてみれば新人だって主任の被害者じゃないか。それなのに今回のミスに責任感じて、自ら発注データを修正するためにこんなに早く出勤して来たんだ。私なんて自分の立場を守る事しか考えてなかったのに。
「…え子でねぁが…」
「はい? エコ、ですか?」
「いえ、いいの…」
新人の直向きさに当てられて良心の呵責に苛まれていると、ふと頭の中に声がした。
‘もっと人どご頼れ’
これはアレだ、さっきの夢(?)に出て来たナマハゲの声だ。
‘もっと素直んなれ’
‘そいだばおめ、もっと楽ぐになれる’
――――あ、そっか。
無意識に俯いていた顔を上げて、資料棚の方を見た。新人は長テーブルで、価格ファイルに付箋の貼り付け作業をしている。発注データに打ち込む発注先メーカーを選別しているんだろう。
残りページの厚みから察すると、もう終わりそう。凄いなぁ。本当に仕事が早いんだね。
新人はこの後、共有フォルダにアクセスして発注データを開いたら、入力されている価格が既に修正済だって事に気付くだろう。
そこで私は『データ修正は終わってますよ!!』ってどっきりのネタばらしボートを――出さないけども、そのくらいの気持ちを込めたラッキーサプライズをしてやるんだ。新人は驚くだろうね。かなり入力ミスしてるって自覚があるらしいから。
だけど私は上司だからね、再発防止のために少しは苦言を呈しなくちゃいけない。それでもこの新人とは、今後も上手くやって行けると思う。
人を頼れ。素直になれ。楽になれ。そうナマハゲ様がヒントを与えてくれたから、私は他人とのコミニュケーションの大切さに気付けた。
だから昔の同僚や同期たちとは叶わなかった絆を、私とよく似たこの新人となら築けそうな気がするんだ。
ん? 気付けた、絆を、築けそう…てダジャレか。
そんな下らない発見に独りでニヤついて、私も自分のノートPCに電源を入れた。
そう言えばナマハゲって、本当は災いを払ってくれる有り難い神様なんだよね。さっきも泣いてる私を励ましに来てくれたのかもなぁ。
それにしても新人、さっきから黙々と入力作業をしてるけど、大丈夫なのかな?
まさか修正済みだって事に気付いてないとか?!
いやでもキーボード打ってる音がするし、価格ファイルのページも捲って見てるみたいだし――あれ? 共有フォルダの発注データがない?!
胸騒ぎを覚えて新人に訊いてみた。
「ねえ、入力作業中に邪魔して悪いんだけど、今日出す発注データ持ってった? 共有フォルダに置いて無いんだけど」
「あ、はい。あのデータはさっき抜き取りました。昨日、全部旧価格で入力してしまいましたから」
また早合点したね。結構おっちょこちょいだわ、この新人。
「君それだいぶ危険よ。そーゆー事はまず中身を確認してからにしなさい。まあ良いわ、その発注データ、一旦共有フォルダに戻して。ちょっと説明する事があるの」
「確認なしですみませんでした。でもあの発注データは削除してしまいましたのでもう有りません」
「えっ削除したの!? 自分のPCのごみ箱に入ってんじゃないの!?」
「いえ、共有フォルダから直接削除したのでPCには残ってません」
「ウソでしょおっ!?!」
「すみませんホントです。あまりに訂正箇所が多いんで打ち直した方が早いと思って、今最初からやり直してます」
「いや待って、もう一回よく探してみてよ!! ね?」
3時間掛けて修正したデータをサクッと削除され、ショックのあまり私の耳は新人の台詞をまともに聴く事を拒否した。だけど新人も引かない。
「課長、申し訳無いのですが時間が勿体ないので続きを打たせて下さい。でも多分大丈夫ですよ。289件ですから9時までには入力出来ると思います。課長はお疲れでしょうから寝てて大丈夫ですよ。何かあったら俺がやっときますのでお任せ下さい」
「…あー、そー……」
不安要素たっぷりな回答をしてる事にまるで気付かない新人にビッと親指を立てて見せられ、私は泣きたい気分でノートPCの電源を落とした。
デスクにどっと突っ伏して、今回の発注データが間に合わなかった場合の言い訳と各メーカーへの対応方法を、疲弊した頭の中でぐるぐる巡らせていた。
だけど新人が打つキーボードの入力音が案外心地良くて、聞いている内にもうどうにでも良いという気持ちになってきてしまい、私はいつの間にか本当に寝入ってしまった。
次に目覚めた時にはもう新人は主任と外回りに出掛けた後だったけど、発注データは無事に各メーカーへ発信されていた。
ただ、当初私が打ち込んでいた件数よりも1件多かった。正しくは、私が1件打ち漏らしてしまっていたのだ。
この事がバレずに済んだのは優秀な新人のお陰だけど、それを知っているのは私だけだから、あの3時間掛けたデータの消失はナマハゲ様から私へのラッキーサプライズだったのかも知れない。
頼れる部下を得られた今は、そんなふうに考える事が出来るほど、私の精神は健康になったんだ。
数カ月後、主任の定年退職の送別会が課内で開かれた。
締めの挨拶で目を潤ませる主任に『贈る言葉』を全員で合唱し、花束を手渡す新人は周囲が揶揄するほど涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
この二人の間にも、それなりに師弟の絆があったって事なのね。
なかなかに美しい光景だけど、それを見ていた私が、ほんの少しジェラシーを覚えたのはここだけの話よ。
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