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 近藤亜香音(こんどうあかね)は遠足が憂鬱だった。天気が崩れて中止になることを願っていたが、テレビの天気予報は、しばらく晴天が続くでしょう、などと憎らしいことを言っている。  遠足当日。  あいにく、空は溢れんばかりの明るさである。遠足日和の素晴らしい好天だった。    みんなを乗せた貸し切りバスは北上し、栃木県北部の山岳地帯に入った。バスは新緑いっぱいの渡良瀬川沿いの国道を走り、さらに深い山あいの道を走った。    男子も女子も、車内で大はしゃぎである。流行りのゲーム攻略法やアイドルグループのゴシップで盛り上がっていたが、亜香音は仲間はずれにされたみたいに車窓に顔を向けていた。バスが登坂路にさしかかると、青い空が視界に飛び込んだ。五月の青空はどこまで昇っても青い。  そのままぐんぐん昇っていって、真っ逆さまに落ちてきたらどんなに気持ちがいいだろう、ぼんやりとそんなことを考えているうちに、今朝のできごとが思い浮かんだ。 「おかあさん、きょう、遠足なんだけど、お弁当は?」  早朝五時。  亜香音はまだ寝ている母親を見て、聞こえないようにため息をついてから、布団を軽く揺すった。 「はあ?・・・・」  母親の敦子(あつこ)は、身体をもぞもぞさせながら、いかにも不愉快そうな声を漏らした。  起こしたわたしがバカだった。亜香音はすぐに後悔した。遠足だから、ひょっとしたら母の作ったいなり寿司が食べられかもしれないと思ったのだが。 「きのうの夜、遅かったんだよ! 弁当なんか作れるわけねえだろ、馬鹿か? おまえ」  敦子はおそろしく不機嫌そうに怒鳴った。 「ごめんなさい、ごめんなさい」  亜香音はひたすら謝った。  ホントは明け方までお酒飲んでたくせに・・・亜香音は口元まででかかった言葉を飲み込んだ。言えば、敦子に物凄い剣幕で怒られ、ビンタを食らうことは間違いなかった。今まで、何回も経験していた。亜香音の太腿にはアイロンのケロイドがある。手の甲にはボールペンを刺された傷痕もある。だから母親の機嫌を損ねてはいけないのだ。いけないのだが、小学校五年生にもなると、やはり自分を主張したくなるものだ。 「謝るくらいなら、起こすな! このバカ!」 「じゃあ、コンビニで何か買っていくよ」 「ああ、そうしな」 「うん」  亜香音は、お弁当代がほしい、とは言えなかった。  寝室の襖戸をそっと閉めた。  自室に戻ると、勉強机の引き出しを開けた。鉛筆や定規に混ざって、色紙を貼りつけただけの小箱がある。中身は百円玉、五十円玉、十円玉の小銭ばかり。        
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