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宮本先生は店に入るなり、「生ビールを2つと、いつもの」と注文した。
宮本先生の「いつもの」は、枝豆、冷奴、シシャモ、砂肝の塩焼き、だ。
私は手早くメイクを直し、エプロンをして、おしぼりと生ビール2つ、キュウリとワカメの酢の物の突き出しを先生のテーブルに運ぶ。
「お兄さん。名前は?」
「瀧沢彦季です」
男=瀧沢さんはようやく聞き取れるような小さい声でボソボソと話す。
「何で、二日も飯、食えてないの?」
宮本先生は遠慮なしに、ガツガツ聞く。
「実は、バイト先が火事になりまして、収入源がなくなってしまったんです。それまでも、家賃を滞納していて、ついに先日、アパートも追い出されてしましました」
「学生だろ?親に相談しないの?」
当然の疑問だ。
「小さい頃に両親が亡くなりまして、親代わりの祖母も、大学に入学する前に亡くなり増した。だから頼れる人はいないんです」
なかなかハードな人生を、若干20歳で送っていらっしゃる。
きき耳を立てていたわけじゃ無いけれど、小さい店では会話が自然と耳に入ってくる。
瀧沢さんの身の上を聞いて、いきなりハイキックをした事を、心底申し訳なく思った。
「お兄さん、苦労してるんだね」
宮本先生は、名前を聞いておきながら、まだ「お兄さん」と呼んでいる。
「ヒデちゃん、ここで雇ってやったら?このお兄さん」
宮本先生が大きな声で、カウンターの中の父に向かって話しかける。
「そうしてあげたいけど、ウチもそんな余裕が無くてねぇ」
申し訳なさそうに、断る父。
その通りだ。
ウチの居酒屋は、家族経営で持っているのだ。アルバイトでさえ、雇う余裕は無い。
「兄ちゃん、その話。本当かい?」
宮本先生の後ろから、常連さんの一人、水田さんが顔を覗かせた。
「はい」
「免許証とか、何か。身分が証明できるモン、持ってるかい?」
水田さんは座っていたカウンター席から、自分のビールジョッキを持って、宮本先生の隣に。移動した。
「はい」
瀧沢さんは財布から免許証と学生証をテーブルに出した。
私は注文の品をテーブルに並べるついでに、その輪に加わった。
写真と本人を比べるが、長い髪が邪魔で、顔がはっきり分からない。
水田さんが、瀧沢さんの前髪を上げて、免許証と比べる。
フムフム。
少し痩せて、日焼けで肌の色が違うが、本人で間違いないだろう。
「兄ちゃん、ウチで働くかい?」
水田さんが、聞く。
「はぁ」
瀧沢さんは、疑問が伺える声色で答える。
「ウチはね、農家なんだ。専業農家。主に米を作ってるんだけど、野菜とかも少しやっててね。給料は最低賃金程度しか出せないけど、それでも良かったら、ウチでどうだい?」
水田さんはウチにお米を卸してくれていて、野菜もある時は声を掛けてくれる。
突き出しで出した、酢の物のキュウリも水田さんの作った物だ。
「いんですか?」
瀧沢さんは、恐る恐ると言ったように、伺う。
「兄ちゃんが続けばいいんだけどな。農家は想像通り、若者にはキツイ仕事だからな」
誘っておいて、今度は脅し。
雇う気はあるのか?
「はい。頑張ります」
瀧沢さんは少し張りのある声で、水田さんに決意表明をする。
「そうかい。頼りにしてるよ。住むところも、ウチに来な。離れの部屋が、空いてるからそこを使うといい」
「えっ、住むところまで、良いんですか?」
さらに張りのある声で喜ぶ。
「あぁ。じゃぁ、今夜は歓迎会だ。ヒデちゃん、兄ちゃんに何か精の付くもん食わしてやって」
水田さんは父にそう言って、宮本先生と瀧沢さんのジョッキに自分のジョッキを合わせて一方的に乾杯をした。
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