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数時間前に知り合って、働き先と住む場所まで決まってしまったが、お酒の席特有の、「無かった事」にはならなくて、ほろ酔いの水田さんに連れられてやって来た水田家は、広い敷地に立派な日本家屋が立ち、そのすぐ隣に真新しい平屋の離れが作られていた。
すんなり事が運びすぎて、夢ではないかと、まだ疑う。
「ばぁさん用にバリアフリーに作ってあるんだ。簡単な台所と、風呂もあるから、好きに使いな」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて、礼を言う。
「それから兄ちゃん、明日、一番に髪切ってきな。見てるだけで暑苦しいわ」
そう言って、財布から1万円札を出して渡してくれた。
「髪は自分で切りますから、これはいいです」
そう言って、押し返す。
「自分でって、ちょこっと切るだけだろ。思いっきり切って、さっぱりして来いっつってんだよ」
圧のある言い方だが、怒っているようでは無さそうだ。
きっと、これも好意なのだ。
それならありがたく受け取ろう。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
ありがたく、1万円札を受け取る。
「おう。それで、足りないもんも揃えな」
「はい」
「あと、表にある、黒い自転車は好きに使っていいから」
なんと、至れり尽くせり。
思わず手を合わしそうになる。
「ありがとうございます」
「おう。じゃぁ、ゆっくり休みな」
そう言って、水田さんは母屋へと戻った。
一人になった離れの部屋を見渡す。
バリアフリーの玄関は広くとってあり、小さな靴箱がある。
靴を脱ぎ、部屋へ入ると、フローリングに正座をした。
「今日から、お世話になります。瀧沢と申します」
南の窓際に座っているおばあさんに挨拶をする。
「ご迷惑でしょうが、他に住むところが見つかるまでは、ここに置いて下さい。お願いします」
深々と頭を下げ、お願いをする。
「まぁ、ご丁寧にありがとうねぇ。私の事は気にせずに、昭夫の事を助けてやって下さいな」
昭夫とは、水田さんの名前だろう。
優しい穏やかな声だ。
「はい。明日から、頑張ります」
「もう、頭を上げて。お風呂に入って寝なさい。農家は健康が一番ですからね」
優しく微笑んで、立ち上がった。
白地に紺で花が描かれている浴衣を着ている。
腰が曲がっていて、歩きにくそうだ。
痩せていて、小さい。
俺の前に来ると、少し驚いた顔をした。
「おや、見えるだけではないようだね」
俺の左腕に付けている、絹の組紐で作られているブレスレットを見て言ったのだろう。
「はい。私も気を付けますが、念の為、身体には触れない方がいいと思います」
全てにあてはまる訳では無いが、気を付けるに越した事は無い。
「ええ、そうします」
おばあさんはそう言って、玄関から外へと出て行った。
きっと、気を使ってくれたのだろう。好意に甘えて、早速シャワーを浴びる。
着替えの服をスーツケースの中から出して、風呂場へ行く。
俺の荷物はスーツケースとリュックだけ。元々物を持たない方だが、家具家電を除くと、俺の全財産はこれが全てだ。
風呂場は、全てバリアフリーに作られていて、手すりや備え付けられている大きな椅子が目につく。
久々に浴びる熱いシャワーは、汚れと一緒に無意識に溜まった緊張も流してくれているようだ。裸の右肩に少し違和感を覚えて見ると、真新しい痣が出来ていた。
あの女。
蹴られた衝撃と、明るい店で見た姿を思い出す。
今時、珍しい位のギャルだったな。
服装は白のTシャツにジーンズのショートパンツだったけど、化粧がバッチバチのギャルだった。
言葉遣いも、接客も普通なのに、容姿がギャルなのは、ギャップなのか何なのか、とにかく印象に残る子だった。
確か、「未來」って呼ばれてたな。
蹴りは肩が外れるほど痛かったけど、あの子のおかげで、今こうして熱いシャワーを浴びられている。何だか福の神のようなありがたい存在に思えてきた。
シャワーをすませて、寝る用意をする。
リクライニング式の介護用ベッド以外見当たらない寝具を探すため、一畳ほどの押入れの戸を開けると案の定、布団が収められていた。
一組以上ある布団と座布団や暖房器具、その他簡易的な掃除機など、色んなものがきっちりと入れられている。
俺が借りていたアパートよりも綺麗で広い。
そこから、布団を一組と、座布団を出して南の窓の側に座布団を置いた。そしてリクライニング式のベッドから少し離して布団を敷いた。
「おやすみなさい」
今は誰も座っていない座布団に向かって挨拶をしてから布団に入った。
久しぶりの布団は何もかもを開放して、安心の眠りに瞬時に引き込んだ。
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