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 夜。  布団を敷いて、部屋の電気を消した。  カーテンの隙間から一筋、月の明かりが部屋に射し込む。  布団の脇に正座をして、月明かりが射す、南の窓に体を向ける。  「富江さんはどうしてここに留まっているんですか?」  前置きなど要らない。本題だけを南の窓の座布団に向かって話す。  「ちゃんと供養してくれていることは、知っていますよ。でもね、心残りがあってね。」  月明かりが射す座布団に座った富江さんが、微笑みながら話す。少し申し訳なさそうに話す口調は、癖なのかもしれない。  出会って、日は浅いが、富江さんはいつもそんな風に話す。  「何でしょう?俺にできることであれば、協力します。しかし、ここに留まることが望みならば、それもいいかもしれません。」  成仏することだけが、幸せとは限らない。  富江さんはゆっくりと首を横に振って、ゆっくり話した。  「母屋に主人が私の為に作ってくれたお風呂があるのよ。檜のお風呂でね。  昔は、養鶏もしていてね、その為に旅行に行けないって、私が愚痴をこぼしたのを覚えてくれてたみたいで、随分後になって、お風呂を改装して、温泉宿みたいなお風呂を作ってくれたのよ。嬉しくて、一日でお風呂の時間が一番好きだったわ。でも、年を取って段差だらけの昔の作りの母屋では生活が困難になってね。お風呂も一人で入るのが難しくなって。とうとう、あのお風呂に入れずに、死んでしまったのよ。  最後に一度だけでいいから、主人が作ってくれたお風呂に入りたかった。」  「風呂、ですか。」  「ええ。この世に未練はそれだけね。」  「成仏を望みますか?」  「ええ。昭夫達にはしっかり供養してもらっているし、家の事も、静子さんがちゃんとやってくれているから。もう、いいのよ。」  「分かりました。この一件が片付いたら、富江さんの願いを叶えます。なので、もう少し待っていてもらえますか?」  「ええ、もちろん。ありがとうねぇ。」  富江さんは俺に、丁寧にお辞儀をした。  「いえ、お世話になっているのに、これしか出来ることが無いんです。すみません。」  俺も富江さんに、丁寧に頭を下げた。
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