或る父とバーテンダー

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或る父とバーテンダー

 酔えないな、と思った。  もちろん比喩ではない。コルクのシンプルなコースターに載ったグラスの中で、アイスピックで砕かれた透明な丸い氷が、酷くゆっくりとした速度でアルコールに溶かされている。 「やけに悩まし気なため息ですね」  カウンターの向こうで、彼はそう云って笑う。センチメンタルな人間だと思っているくせに、語りかけるのに笑顔をチョイスするところ、なかなか非情な男だ。  まあ普通、客の愚痴を聞くのはバーテンダーの仕事に含まれていない。そしてやはり、自分が彼と同じ立場でもきっと、当たり前のように微笑む。ただこの若いバーテンダーは、少しだけ笑顔の作り方が下手だ。この場面で、楽しそうな笑みを浮かべるべきではない。  私は親指で煙草のフィルターを弾いて、銀の灰皿に火口の灰を落とす。それから頬杖をついて彼を見上げ、できるだけ綺麗に口角を上げる。 「大人の男のため息は、なかなかセクシーだろう?」 「どうでしょう。それがカクテルの味への感嘆なら頷きますけどね。副流煙の有害物質にまみれたため息は、ちょっと」  なんだ、それ。  初対面の客に対する態度にしては、砕け過ぎている。だが別段不快ではない。その言葉は冗談ではないのだろうが、彼の表情が楽しそうだから、この会話に『店員と客』としての少し遠い距離感が不要なのだと感じる。  もしかしたら、そのように笑ったのはわざとかもしれない。だとすると、随分器用な青年だ。  私は分かり易く肩をすくめる。 「煙が苦手なんだったら悪いね。今日はただ、少し酔いたくて。でも酔えないから、煙草でため息を誤魔化していた。でも君にバレてしまったなら、少し演技力を磨こうかな」 「『飲み過ぎるとそれなりに体に有害なもの』を提供する商売しといて、今更煙草くらい嫌いませんよ。お酒の丸いグラスと煙草の煙って、なかなか艶めかしい組み合わせですよね」 「そうかもしれない。だが説明的な枕詞に悪意があるね、フォローが中途半端だ」 「諦めてください。俺には大人の男のため息の魅力も、上目遣いの男性の色っぽさも理解できないので」  並べばまだ私の方が背が高い。だが姿勢よく立つバーテンダーとカウンター席の客とでは、どうしてもこちら側が見上げる形になる。 「私の上目遣いはなかなか貴重だよ。もう少しありがたがっても良い」 「貴方のつむじにお賽銭を投げたら良いんですか?」 「嫌だよ。それをするのは、神を自称する客だけにしておきなさい」 「嫌ですよ。五円だって貴重な店の売り上げなんですから」 「ならどうして私には投げようとするんだい?」 「もちろん、きっちり五円伝票に付けておきます」  控え目なジャズが流れるバーの光源は弱い。店内のそこここに、薄暗闇が吹き溜まっている。そのコントラストのせいか、余計彼の笑顔が人懐っこく、明るく見えた。  だから彼の持つ、落ち着いた色のアンティークデザインのボールペンが、妙に彼に似合わない。そのインクに『お賽銭五円』と記される前に、伝票を裏返して灰皿を乗せる。  なんだか彼との会話は独特だ。一般的に店員と客の関係で、相手に振り回されるのは店員の仕事なのに、私と彼ではその役割が逆転する。 「この歳になって、女の子に告白されたと云ったら、君は笑うかい?」  会話が区切れたから、話題を替える。この話題には、意地の悪い青年を巻き込んでやりたくなった。  彼は人差し指でとん、とこめかみを叩く。思考する素振り。ふと、その爪先が短く切り揃えられているのが見えた。彼のことはよく知らないが、飲食店の店員の清潔感よりも先に、女性に対する慣れを感じる。 「いえ。大人の男性に、恋愛相談を持ち掛けられた経験がないので。笑う余裕がないですね」 「うん? ……でも、楽しそうに微笑んでるね」 「誠実な表情を作るより、ただ口角を上げておくだけの方が楽なんですよ」  食えない子だ。私は短く息を吐く。 「そ。とにかくね、告白されたんだ。一方的な婚約とも呼べる。私より随分、年下の子だ」 「役得ですね。最近では枯れ専の女の子も多いですし」 「どうして大人の女性は熟すのに、男は枯れるんだろうね」 「言葉の成り立ちに関する相談なら、俺よりも辞書相手にした方が確実ですよ」  一瞬、小さくなったグラスの氷が、澄んだ音でその存在を主張し、ひと呼吸分の沈黙を作る。  その間に、彼は私の左手の薬指を見て、納得したような顔をした。 「奥さんがいるのなら、貴方にその気がなければ、頷くべきじゃないですよ。倫理的に。まあ、貴方は誠実そうなので、もしそれが結婚詐欺だったとしても、簡単には騙されなさそうですけど」 「どうかな。マジックカットには何度も騙されている」 「あれに一〇〇%騙されない人なんて見たことありませんよ。そろそろ『運が良ければこちら側の何処からでも切れます』に表記を改めるべきです」  思わず笑う。この青年が小袋を相手に眉をひそめるところは、上手く想像できない。 「なんとなく、君は一〇〇%切れそうな気がするけど」 「切れますよ。俺はあれを信じたことがないから、常に鋏を使います」  今度は彼はこめかみでなく、カウンターを爪の先で叩く。その小気味好い音はどことなく、改行のためにやや強く押すエンターキーに似ている。 「まあ、貴方のお好きなように。奥さんを選ぼうが若い女の子を選ぼうが。それに口出しして巻き込まれるには、バーテンダーの給料は安過ぎる」 「いつ、私が君に『相談』だって云ったの? 私は父親にとって、最も幸せな悩みを語っているだけだ」  少しの間。私が微笑み、彼が不機嫌そうに眉をひそめるだけの、微かな間。  それから若いバーテンダーは、ようやく話を把握したように、ため息を吐いた。 「……貴方、俺のこと嫌いでしょ」 「いや? 少し意地の悪い、愉快な青年だと思ったよ。私はただ、最初から幸せ自慢をしていただけさ。勝手にシリアスに捉えたのも、先に話し掛けてきたのも君だ」 「悔しいな。俺の趣味は、酔っぱらった年上を云い負かしてやることなのに」 「それはちょっと治した方が良い趣味だ」 「嫌ですよ。貴方なんて、一生その悩みに頭を抱えていれば良い」  ああ、と目を細めて、グラスに残ったラスティネイルをあおる。最初に比べて随分薄まってはいたが、それでもハーブ系のリキュールとスコッチの香りは複雑で刺激的だ。その甘味が、躊躇うように喉に絡まり、やがてほんのりと熱をもって落ちていく。 「それは、願ってもいない祝福だ……いつまでも父親ってのは、この妻と娘の修羅場に居心地の良さを感じ、その終わりを恐れている」  私を巡る二人の恋敵は、今頃仲良く抱き合って、同じベッドのぬくもりの中にいるばずだ。
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