吐息の理由

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 吐息の理由  天川(てがわ)さく  気づいて。  声にして。  好きだって──いって。  そう思っていたからかな。  (ひたい)があたたかくなって視線だけをあげた。  ──瑛太(えいた)さんがわたしにキスをしていた。 「な、なな」  慌てて椅子ごとひっくり返りそうになり、背後に立っていた瑛太さんが「おっと」と支える。 「あぶないよ」 「じゃなくて、なにするんですか」  康平(こうへい)の目の前で、といいかけて口を閉じる。  瑛太さんはちらりと視線をやって「だって」ととろけるような顔をした。 「美月(みつき)ちゃん、可愛いんだもん」  だもんって、こどもか。 「その場のノリでやっていいことと悪いことがあってですね」 「ノリじゃなかったら?」 「なおさら駄目です」 「つれないなあ」  あのですねえ、と瑛太さんへ測定データの束を差し出した。 「こんなに仕上がっているんです。さっさと教授に報告しないと。遊んでいる場合じゃなくて」 「遊んでないもん」 「瑛太さん」  かたりと音がした。康平が立ちあがっていた。背中を向けて学生部屋を出ていく。……うるさかった? 違う……そういうことじゃなくて。  ──ああもう。  吐息がもれる。 *  康平をちゃんと知ったのは一年前。震災直後の大学三年の夏。  この地質学の研究室に一緒に入って、とにかく人手不足だからとペアを組まされ、あちこちの震災現場へいった。  最初はなんて喋んない男子なのって。  でも──。  今年の夏。  現場帰りによった余市(よいち)の、辛うじて罹災をまぬがれた蒸留所で、「車ならお酒は駄目っしょ」とすすめられたアップルサイダーを飲んだら。 「うまい。なにこれ。めちゃリンゴ。こんなのおれ飲んだことない」  そっか、と康平は口元をぬぐう。 「ここって震災前はシードルも作っていたんだよね。この風味はその応用? 甘みもただの炭酸飲料っていうよりノンアル飲料みたいで」  思わずぷはっと笑ってしまう。 「結構語るのね」  康平が黙る。……怒らせた? そう思ったとき、康平がわたしの頬を指先でぬぐった。 「サイダーがついてた。人のこと笑うから」 「……ごめん」 「言葉ってさ。分身みたいじゃん。軽々しく口にしたくないんだ」 「風味の話は大丈夫なの?」  康平は微笑むとアップルサイダーを飲み干した。  それから、空瓶をベンチにおいて、前を向いたままわたしの指に指をからめた。  細くて長い指先。  ひんやりとしていたその指が次第にあたたかくなって、わたしの体温と同じになり。……ただそれだけなのに、身体の芯がむずむずして。  そのあと──帰路の車窓から見た夕陽。  身体が震えた。  夕陽なんて何カ月ぶり? 世界中の火山の噴煙で空はずっと厚い雲におおわれていたから。運転する康平の横顔をそっと見る。康平の目もほんのり潤んでみえた。  こうやって、と思った。  こうやって少しずつ、ふたりの間を深めていけたら。  そうすれば──。  どんな地震があっても、火山が噴火しても、教授がめちゃくちゃな指示を出しても、わたしはがんばって生きていけるのに。  ──そう思っていたのに。 *    そのひと月後。  大学院の秋入学で瑛太さんが研究室にやってきた。  教授の提案でわたしは瑛太さんと共同研究をすることに。わたしにとっては卒論あつかい。とても断れない。 「美月ちゃんて可愛いコだなあって入ったときから思ってたんだ」  そんな軽口を叩きながら「ね」と康平に微笑みかける。  康平は不機嫌そうに顔をそらし、瑛太さんは意味ありげにわたしの肩を小突く。  そう。  瑛太さんはスキンシップが多い。  挨拶するように頭を撫でて、頬をつつき、髪に指をからめてくる。  距離も近い。  呼びかけられて顔をあげたら、息がとどく位置に瑛太さんの顔があるなんていつも。 「瑛太さん、近いです」 「あーごめん。近づけないと値が見えなくて」 「ノートごとどうぞ」 「美月ちゃんの匂いがする」 「返してください」 「まだ数値を書き写してないよ」  早くして、といいかけて口を閉じる。  これではまるで痴話げんか。  こんなところを康平に見られたら。そう思うときに限って、ちゃっかり康平は見ている。  気まずい空気が流れているのに瑛太さんはあおるように「ねー。美月ちゃんっていい匂い」って康平に同意をもとめて。  やめてってわたしは胸でさけんで。康平は無言で瑛太さんに背を向けて。それを見て瑛太さんは吐息をもらし。    なんなの一体。  わたしはどうすればいいの。  康平はわたしと瑛太さんが仲良くしていてもいいの?  不機嫌そうにするなら何かいってよ。  ……苛立ちはつのるばかり。  はああ、と思う。  なんでわたし、こんなやつをずっと待っているんだろう──。  瑛太さんのほうが。  ずっと優しくて。  ずっと気安くて。  ずっと笑いかけてくれるのに。  わかってる──。わたしは康平の背中を見る。  康平はとても言葉を大切にしている。軽々しい言葉ははかない。  だけど。  だからこそ。  ──わたしはそっと息をはく。 *
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