吐息の理由

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 ん、と康平がカラフルな図を差し出した。  びっしりと書き込まれたカラフルな柱状図。わたしは思わず息を飲む。 「すごく細かい。きれい。これってさっきから書いていたやつ? 手書きを卒論に使うの?」 「まさか」 「だって」 「美月たちが使いやすいように色分けをした。論文に使うのはモノクロだしね。気になったこともメモしたから使って」  わざわざこんな手間を? 書きあげるのに何時間もかけて? 康平だって──めちゃくちゃ忙しいのに。  康平が笑みを浮かべていた。  アップルサイダーを飲んだときと同じ笑み。康平が手をのばしかけ、けれど指先を折り曲げて。指の関節で軽くコンコンとわたしの頬に触れる。 「がんばれよ」 「──ありがと」  康平の背中を見送って、ひとりデスクに地質図を広げる。康平がくれた柱状図ってこのあたりのよね。地点を見ながら頬が緩むのをおさえられない。  瑛太さんにどれだけ優しい言葉をささやかれようと、肩をよせられようと、額にキスまでされても康平にはかなわない。  わたし、やっぱり。  笑みを浮かべてわたしは康平の柱状図を指先でなぞる。 * 「この柱状図、どうしたの?」  瑛太さんが康平の柱状図を食い入るように眺めている。それからわたしではなく康平へ顔を向けた。  ……怒ってる? 自分の仕事に水を差された気持になった? 「瑛太さん、あのね、これは」 「康平。昨日だってほぼ徹夜なのに。これもやってくれたんだ」  徹夜? そうなの?  わたしも康平を見る。パーカーのフードを半分かぶるようにして製図ソフトを操作する康平。その姿はいつもと変りなく見えたけれど。  ちょっと待って。どうして康平が徹夜したって知っているの? 瑛太さんこそ徹夜? それもすぐにこれが康平の図だとわかるって?  そう思って振り返り──わたしは口を閉じた。  瑛太さんが笑っていた。  なんともいえない柔らかい顔で康平の柱状図を指でなぞっている。  あ──。  予感がじわじわと押しよせる。  瑛太さんはそのままの姿勢でそっと声を出した。 「康平にお礼しなくちゃね。美月ちゃんさ、余市の蒸留所のアップルサイダーって知ってる?」  ぎょっとする。  どうして瑛太さんがそれを? 「康平から聞いたんですか?」 「ちがうよ」 「なら」 「見ていればわかるでしょ。あれ、康平の好みだと思うんだよね。なかなか売ってなくてさ。どこなら買えるかなあ」  見ていればわかる? そんなにあいつ、サイダーを飲んでいたっけ?  予感がどんどん濃くなっていく。  瑛太さんは康平の柱状図を撫で続けている。  うん。もう、ほかにたとえようもなく──愛しそうに。 「ここって本当にレキ岩かな。なら僕らの地点も見直さなくちゃね。美月ちゃん、いい場所を知らない?」  うん──知らなかった。  ……いつから? 秋に入学してきたときから?  わたしにからんでいたのは、わたしが目的じゃなくて。  ああ──そうか。  毎日かならず康平に話しかけて。どれだけつれなくされても態度を変えることなく。康平に向ける顔はいつも笑顔。  いつもいつもいつも。  そういえば──わたしをご飯に誘うときは、かならず康平も誘っていた。あれって康平がついでじゃなくて、ついでなのは。  わたしは吐息をもらす。 「……なにやっているんですか」  瑛太さんが顔をあげる。  わたしは康平に視線を向け、それからまた視線を瑛太さんに戻した。気づいちゃった。その合図。  瑛太さんの顔から笑みが消える。 「馬鹿みたい」 「……そういわれてもなあ」  瑛太さんは力なくつぶやくと顔をくしゃりとゆがめた。  それだけで十分、彼がどれだけ康平を思っているのか伝わってきた。  大切で、好きすぎて、言葉に──できない。  あふれる思いで相手をつぶしてしまいそうで。どうしたらいいのかわからなくて。  だって康平は言葉の重みをわかっているから。だからきっと──瑛太さんからいわれたら。絶対に真剣に受けとめる。考えて考えて、それで。  瑛太さんはそこまでわかっているから。  康平を困らせたくなくて。  わたしだって──。   *  ああもう。  わたしは大げさに肩をすくめた。 「うっかりわたしにキスするなんて、額でもホントないですよ」 「だって可愛かったんだもん」 「ペットみたいに?」  そこまでは、と瑛太さんは口ごもる。わたしは苦笑して、にじんだ涙を指でぬぐう。 「手加減しませんから」 「えー。そんなこといわずに。してくれていいんだよ?」  顔を見合わせる。ふふっと笑う。  それからそろって、吐息をもらす。  まったくもう。  康平がどれだけ難しいのかわかっているの?  人生って本当に、意地悪だ。   (了)
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