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7.展覧会にて
キレイとの別れから一ヶ月。洗濯機からキレイの声が聞こえることは一度も無く、日々は過ぎていった。
そして今、俺は咲良の展覧会を目の前にして驚きを隠せない。
「すごいな」
それは大きめな展示場を貸し切って行われており、その入り口にはゆうに百を超える人々の行列ができていた。
開館すると俺は受付で名乗った。
「坂口さんですね」受付の若い女性が笑顔で言う。「少々お待ちください」
女性が受話器を取り、一言二言喋ると背後から声が聞こえてきた。
「天ちゃん! 来てくれたんだね」
「もちろん。想像の何倍も大きいこの展示場に驚いてるよ。凄い人気だね」
「ここ最近で一気に人気が出てね。さあ、案内するから着いてきて」
俺と咲良は一緒に絵を見て回った。
どの絵も彼女が昔に描いていた絵の面影を持ち合わせた上で、技術的な上達が見られ、見るものを引き込む壮大な絵だった。
自分が描いた絵を紹介する彼女は生き生きとしていた。
思い返せば子どもの頃も一生懸命、彼女の描いた絵を俺に紹介してくれてたっけ。
その後、俺は彼女に目をつぶるよう指示され、手を引かれて歩いた。
「まだ目開けてないよね? さあ、着いたよ。目を開けて」
俺が閉じていたまぶたを開くと、連れてこられたそこは背丈の何倍もの大きさの絵が飾られた部屋だった。
「これが私の作品の中で一番の人気がある絵。私の最高傑作で、一番心をこめた作品」
それは誰もいなくなった教室で絵を描く一人の少年の絵だった。
奥の窓から夕陽が差し込み、部屋にあるものは影を長く伸ばしている。見事なコントラスト。
その少年が誰なのか、俺にはすぐわかった。
「これは中学の時の天ちゃんを描いた絵なの」
俺は中学の時、よく一人で教室に残って絵を描いていた。俺にとっては青春の一ページだ。
「なつかしいなあ」
「でしょ。私、心を込めてこの作品を描いたわ」
「うん。いい絵だね」
ちらと咲良を見ると、彼女は目を輝かせて絵の中の俺を見ていた。
絵の俺からは孤独と、それに力強さが感じられた。
俺たちはその後、近くの喫茶店に入った。
俺はカバンから『恋する洗濯機』を取りだして咲良に渡した。
「ほら、前に公園で話したやつ、連載になったよ」
「わー。登場人物の絵、昔と変わってないね」
「そう? これでも色々と勉強したんだけど」
「あっ、良い意味で変わってないってことだよ。読んで良い?」
「是非」
咲良は懐かしさに浸りながら『恋する洗濯機』を読んでくれた。
出版社の長田に読んでもらうみたいな緊張感は無く、こども時代にできた絵を見てもらったのと同じ感覚だった。
「良いねこの話。面白いよ」
「これが売れてるのも君がアドバイスをくれたおかげさ」
「それは良かった。この漫画人気なの?」
「売り上げは右肩上がりでどんどん読者が増えてるって。本当に有り難いことだよ」
「おめでとう、天ちゃん」咲良はお茶を一口飲んだ。「なんかさ、私の気のせいかもしれないけど、天ちゃん、この前に会った時より元気無い気がする」
俺はコーヒーに映った自分を見た。確かに、前より痩せた気もする。
「実は俺、好きな人と別れたんだ」
俺は咲良にキレイとの別れを話した。キレイが洗濯機であったということ以外は全てありのまま。
「俺、前の彼女とは三年も続いてたのに、今回は一週間で別れが来たんだ。それなのに、俺は彼女との別れの方が比べものにならないくらい寂しいんだ」
「それは天ちゃんがそれだけその子のことを愛してたってことね」
俺は涙を抑えるようにコーヒーを飲み込んだ。
「どんなに分厚い雲が広がっていたとしても、その向こう側には必ず明るい太陽が輝いている」
咲良の口から出た言葉に、俺は自分の耳を疑った。
「えっ、今何て?」
「『どんなに分厚い雲が広がっていたとしても、その向こう側には必ず明るい太陽が輝いている』。辛いことがあった時に思い返す言葉」
「それ、彼女も同じこと言ってたよ」
咲良は目を丸くした。
「すごい偶然。どこで聞いたのか覚えてないけど、案外有名な言葉なのかもね」
俺たちは喫茶店を出ると再開したあの映画館で映画を観た。
悲しくもないシーンで涙を流す俺に彼女はハンカチを渡してくれた。
日も暮れてきて俺たちは、またあの公園を歩いていた。
「言うタイミングが無かったんだけど、実は利美がこの前、目覚めたの」
「えっ!? 十年間眠っていて目覚めたの?」
「そうなの、信じられないよね。体調も急激に回復してるって。奇跡よ」
「奇跡……か」
「うん。言葉で表せないくらい嬉しいわ。だから、そのうちきっとあなたにも奇跡が起こるわ。私にはわかる気がする」
彼女は笑顔のまま涙を流していた。
「あなたも今度会ってみる?」
「何で僕が?」
「だって、天ちゃんは利美のこと好きだったでしょ」
「えっ!? 何で知ってるの?」
「だいぶわかりやすかったよ」
顔が熱い。
「池林さんは俺が好きだって気付いていたのかな」
「気付いていたよ」
「え……知らなかったな」
「あなたのことを話してたこともあったし」
「俺とは一回も喋ったことないのに?」
「うん。利美とは毎日話してたのに、それが普通だったのに。あんなにも唐突に話せなくなるなんてね。段々と彼女の声を忘れていくのが寂しかった」
俺の頭の中でもキレイの声は既にぼやけつつある。忘れないと固く誓ったはずなのに。
「池林さんは俺について何て言ってたの?」
「利美はね――」
俺はすれ違いざまに向こう側から歩いてくる男とぶつかった。
「すみません」
そう言って相手の顔を見ると、そいつはにやっと笑った。
「この前はよくも騒いでくれたな」
そう言ったその男は金髪で前歯が無かった。
男はチラリと咲良の方を見て、服からナイフを取り出すと彼女に向かってそれを振りかざした。
「やめろ!」
無意識のうちに俺は彼女の前に飛び出していた。
右肩が痛い。
咲良の叫び声。
俺は力を込めて、男の腹に蹴りを入れた。
男は腹を抱えて後ろに体勢を崩し、池に落ちた。
痛みを感じる右肩を見ると、深くナイフが刺さっていた。
世界が横転する。
遠くから叫び声を聞きつけた警察官が走ってくるのが見える。
「お巡りさん、助けてください! 天ちゃん! 死んじゃだめ。死なないで。お願い……」
彼女の涙が俺の頬に落ちた。
「大丈夫、俺は死なないよ」
視界が赤くなった。
この時、俺は改めて感じた。
俺は大切にされていたんだな、と。
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