2人が本棚に入れています
本棚に追加
3.家族に
道は相変わらずの暑さだ。
俺はあまりの暑さに、近くにあった書店に寄って休むことにした。
中はクーラーが効いており、とても快適だった。
ふと、俺の目に留まった物があった。
『恋する洗濯機』
それは最近大ヒットしている漫画だった。
俺の頭の中に記憶が甦る。
あの頃、俺はろくに貯金もしていなかった。
そんな中、俺の娘である珠里は三歳の誕生日を迎えた。
珠里はおもちゃのお人形セットを欲しがった。俺はどうしても珠里にそれを買ってあげたかった。
だが、それはおもちゃにしては高い値段だった。
俺は仕事もせずにダラダラと日々を過ごしていたし、妻の沢子が必死に稼いでくれた金は生活費をなんとかもたせるので余りなど無かった。
俺はそれが理由で、珠里に可哀想な思いをさせたくなかった。
今思えばその時に働き始めれば良かったのだ。
だが、愚かな俺は侵入が楽そうな家を探しだし、盗みを働くことを考えた。
実際に侵入して、そこで住人と鉢合わせになった。
俺はその男に返り討ちにされ、倒れた。
しかし、その後彼は俺に隙を見せた。俺は怒りに身を任せて彼を殺そうと考えた。
だが、そこで警察のサイレンが聞こえ、我に返った。
本当にあの時、俺の過ちを止めて下さった神様には感謝している。あそこで一歩を踏み出してしまえば、俺は今ここにいないだろう。
俺はすぐにそこから逃げ出し、家へ帰ると沢子は「どうしたの、その怪我!?」と血相を変えて聞いてきた。
酔っ払いと喧嘩した、と俺は嘘をついた。
結局、家族に不安をかけただけで、何も得られたものはなかった。
俺が「ごめん、お誕生日プレゼントは買えなかったんだ。また、今度お金が入ったら、買ってあげるから」と必死の弁解をしたことに、珠里は悲しみの顔を浮かべた。
俺の胸は締め付けられ、その気持ちの矛先は理不尽にも、俺が入った家の男に向けられた。
彼が黙って金を渡してくれていたら、と。
そんな痛い目を見ても俺は仕事をしなかった。どうすれば仕事ができるのか、恥ずかしながらその時の俺にはわからなかったのだ。
ある日、俺が公園をぶらぶらと歩いていると、見覚えのある顔が向こうから歩いてきた。
それはあの家の主人だった。
彼は横を歩く女性と話をしていた。俺には直感で、その女性が彼の大事な人だとわかった。
男はこちらに気付かなかったので、すれ違いざまに、俺はわざと男の肩にぶつかった。
咄嗟に謝ってくる彼に、俺は溜まっていた怒りを押さえられなくなった。何かが頭の奥でプツッと切れる音がした。
「この前はよくも騒いでくれたな」
俺はそう言って、護身用に持ち歩いていたナイフを取り出した。
最初、彼を切りつけようと思っていた。だが、そこで横にいた女性と目が合った。
俺の中にあった気持ちは更なる悪魔へと変わった。
この男から、隣にいる女性を奪い取ってやろう。この俺が娘の笑顔を奪われたように。そう考えたのだ。
俺が女性に向けて、勢いよくナイフを振り下ろしたとき、彼は迷いもなくナイフの先へと飛び出した。
俺の手に握られていたナイフは、彼の肩に深く刺さっていた。
頭の中が真っ白になった。
何でそんなことができるのだ。何故そこまで……自らを犠牲にしてまで人を守ることができるのだ。
俺は動転し、動きを止めた。
彼の真剣なまなざしが俺の目を貫いた。心臓を握りつぶされたような気分になった。
すかさず腹に蹴りが飛んできた。
俺は彼の蹴りをまっすぐに受けて、後ろにあった池へと落ちた。
近くで女性の悲鳴が上がった。
辺りがザワザワとしてきて、警察が来たのもわかった。
だが、池に浮いた俺の体には力が入らなかった。
俺の目には未だに彼のまなざしが刺さっていた。
俺は何てバカだったのだろう。
あの池から俺が引き上げられた時、俺の顔を滴る水滴が池の水だけではなかった。そのことを知る者は俺以外にいないだろう。
その事件でようやく、俺は心から反省した。
しばらくして彼の体調が回復してきたところで、心の底からの謝罪をしに行った。
俺は残りの前歯が全部折られるぐらいの覚悟で、彼の元へ行った。
だが、彼は静かに「これからはこんなことをせず、人を大切にするように」と言った。加えて彼は「自分のことも大切にしてください」と言った。
俺は涙が止まらなかった。顔をぐしゃぐしゃにして彼に感謝を言った。もう過ちは繰り返さない。そう誓った。
沢子と珠里にも頭を下げて謝った。
俺はこれから人生やり直す。今までごめん。二人の為に生きてきたつもりだったけど、ただ甘えているだけだった。本当に申し訳ない。
そう泣きながら言った。
沢子は、「待っているから、しっかり償って。そして、また新しく生活を始めましょう」と言ってくれた。彼女の声は震えっぱなしで、後半には嗚咽も混ざっていたために聞き取りずらかったが、一言も漏らさずに聞き取った。
俺は本当に良い家族に恵まれていたことを実感した。
それから、刑務所での生活が頭の中を流れていった。
家族の元へ帰ることができたあの感動を思い出した。学校に通うようになった珠里と少しやつれた沢子が温かく迎えてくれた時の幸福を思い出した。
今では俺もちゃんと仕事を見つけ、真面目にやっている。おかげで以前よりは生活にも余裕が生まれた。
ちゃんと珠里に誕生日プレゼントも贈ることができるようになった。
しばらくして、やっと意識が手元の本に戻ってきた。
『恋する洗濯機』
それは、俺の人生を救ってくれた彼、坂口天馬の作品だった。
そういえば、と彼の家に盗みに入った時の彼の言動を思い出した。
彼は俺と揉み合っている中で、必死に洗濯機を守ろうとしていたのだ。
洗濯機を守ろうとする彼を見たとき、俺はきちがいだと思っていた。
彼が俺のことを許してくれた時でさえも、あの時の洗濯機に対する言動だけは不思議に感じていた。
だが、今なら何となく分かる気がする。
『扇風機になる』という、信じられない状況(未だに夢なのではないかと疑っている)に陥ったからこそ、何だか分かる気がするのだ。
もしかして、彼も似たような状況にあったのではないか、と。
元々、彼は自分のことを犠牲にしてまで、大切なものを守ることのできる人間だったのだ。
俺にはそれがわからず、彼がナイフを恐れずに隣の女性を守ったことに心底驚かされた。
考えてみれば、俺はあれだけたくさんの人に救われて、今の生活をさせてもらえている。それなのにこの前、ただイライラしていただけで、相手が知らない子どもだからと、冷たく当たってしまったのだ。
何も変われていなかったのではないか。
俺は結局、あの少女にまで助けてもらう事になった。
魔法使いだというあの少女のおかげで、俺は優しさに気が付くことができたのではないだろうか。
どれだけ助けてもらわないと、生きていけない人間なのだろう。
自分のことが恥ずかしくなった。
だが、ずっと恥ずかしがっていてもしょうがない。
気付けたのだからそれを大事に守っていこう。俺はそう考えた。
俺は『恋する洗濯機』を手にするとレジへと向かった。
書店を出ると、再び体は熱気に包まれた。
もう一度、書店に戻ろうかという考えが脳裏をよぎったが、俺は歩みを進めた。
俺には帰らなくてはいけない家があるのだ。
近くの家から扇風機の音がして、俺は耳を澄ます。
お爺さんと夫婦の記憶がみるみるうちに、濃く現れた。
「あれは、きっと夢じゃないんだな……」
そうつぶやくと、また前を向いて足を動かす。
焼き付けるような陽差しの中、俺は歩き続ける。
家で待つ最愛の妻、そして今はその笑顔を見せてくれるようになった、愛しい我が娘が待つ家へと。
最初のコメントを投稿しよう!