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こういうのを、なんと呼ぶのだったか。
そう、確か――
「――雲海」
ぽつりと呟けば、自分の声がひどく小さく鳴ったのがわかった。
だだっ広い空間だ。見渡す限り柔らかげな純白の雲が地面として存在している。飛行機の窓から飛び出したらこんな風景が見られるかもしれない。
地平線だけがやけにくっきりと見えた。修正液でぶっとく境目を描いたようだった。そのまま薄い青に目を移せば、地上で見るよりずっと澄んだ広がりが見えた。透明度の高い海を覗いているようだ。
そのまま天を仰げば、いつもより近い太陽を直視してしまった。思わず俯いた先には自分の足元。脛の真ん中から下は見えなかった。足の感覚はあるから、私の足が無いのではなく、ただ濃い雲で隠れているだけだとわかる。こんな近さの私の足でさえ見えないのだから、おそらくこのずっと下にあるだろう地球も見えない。随分と厚い雲の上に立っているようだった。
人は雲の上には立てない。というのは、義務教育をきちんと受けていれば誰にでも理解できることだ。しかしどうだろう。今私はその理屈を覆している。だって間違いなく雲の上に立ってる。
ほんのつい先ほど、私はここで目覚めた。いや、そもそも私は寝ていたのだろうか?
記憶が確かならば、部屋にいた筈である。でも私の部屋はこんなに開放的ではないし、そういえば外は嵐だった気がする。雲を隔てた世界はこんなにも穏やかなのだろうか。
肌触りの良い風が頬を撫でた。しかし妙に気持ち悪い。風には温度がなかった。いや、風だけではない。雲に覆われた足、直射日光を受ける体、どちらも冷たくも暑くもない。
あら、もしかして、これって夢なのでは?
珍しいこともあるものだ。というのも、私は夢を見ているときにそれを夢だと自覚しないタイプだからだ。記憶が確かであれば、夢だと自覚したのはこれが初めてかもしれない。
ならば足を踏み出しても何ら問題は無いことになる。落ちても死に直結しているわけではないのだ。
実はさっきからこの雲の上を歩いてみたくてしかながなかった。
子供じみた衝動だが、おそらく誰にでもあるものではないだろうか。
けれどやはり、最初の一歩は怖いものである。もしその設定だけがやけにリアルだったら? もちろん私は重力に従順な生き物であるからして、結果は見えている。
夢とはいえ、こわい。
でも歩いてみたい。
「……」
片足だけ。まずつま先で足が着けるか確認しよう。
そおっと片足を雲から離した瞬間、それは突如として目の前に現れた。
「危ないよ」
動画サイトで見た雲を這う稲妻のように横から現れたような気もするし、地上に落ちるときの雷みたいに上から降ってきたような気もした。しかし登場の効果音はそれが発した一言だけ。
大事なものでも触るように私の右手を掴んだのは、十代前半くらいの少年だった。布一枚のような、緩い風に揺れる真白い服を着ている。私の胸くらいまでの身長で、おそろしく整った容姿だ。たまたまSNSに載せた子供の写真が拡散されまくって調子に乗った母親が専用アカウンに投稿し続けた、みたいな子供が少し成長したらちょうどこんな風になるかもしれない。幼少期はさぞかし天使の様だったんだろう。今は第二次成長期の途中だろうか。薄い体が中性的であるのに対し、顔の骨格や僅かに主張する喉仏から、男になろうとしていることが窺える。見ているこちらを落ち着かない気持ちにさせる存在だった。
「落ちる気だったの?」
変声期の途中なのだろうか。少し掠れた、低いような高いような声だった。
私を正面からじっと見ている。ちょっと咎めるように。
「落ちる気はなかったよ。歩けるか試そうとしただけ」
「ここは一人じゃ歩けないよ。ぼくが手をつないで引っ張ってあげる」
私の答えに満足したのか、少年はにっこり笑顔を浮かべた。
そして、おかしなくらい自然に二人で歩き出した。でも私はなんだかそれが当たり前だと感じたから、とくに何も言わなかった。
歩き出した雲の上は、思っていたよりもしっかり地に足が着いてる感覚があった。もっとこう、ふわふわしているのかと思ってた。しばらく周りの景色なんかを見ていたが、とくに代わり映えはしないと気が付いた私は少し前を歩く少年の後頭部を見ることにした。
「ぼくに何か付いてる?」
少年は前を向いたまま問いかけてきた。その瞬間、何故か強いデジャビュを感じた。はて、こんな美少年、一度会っていたら忘れられそうにないと思うが。思い出そうとしても、明確に記憶には辿り着かなかった。
「ごめん、何も付いてないよ。見てただけ」
「そっか」
「それより、名前はなんていうの?」
見ていたのがばれて少しばかりばつが悪くなった私は話題を変えた。
「………………………………ぼくはラウ」
なにやら葛藤があったらしい沈黙の後、少年はそう名乗った。
「ラウくん」
「その呼び方はダメ。ラウって呼んで」
「え、えっと、ラウ」
「……えへへ」
要望通りに呼べば、右手を握る力が強くなったような気がした。照れたような声を漏らしたラウの耳が赤い。あまりのあざとさに、私は名乗るタイミングを逃した。
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