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バタートーストとハチミツ入りホットミルク
やわらかくておおきなベッド。季節の花々が咲く庭。そして――。
美紗子さん。あなたがいるから、ここはいい部屋なんだ。
―――
「勇二くん。勇二くん……」
「ん……」
聴きなれた声で目を覚ます。二十代はとうに過ぎた、ちょっと低めの女性の声だ。
――そうだった。いまの僕は『勇二』だったんだ。
女性――美紗子さんと契約する直前に咄嗟に浮かんだ名前は、まだしっくりこない。
一階に降りて顔を洗っているあいだに、美紗子さんが台所で朝食の準備をしてくれた。
「他の学生はもう出かけましたか」
「とっくにね」
「やった。今日もふたりで朝ごはんだ」
「勇二くん。今日"も"って、きみは今日が初日でしょ?」
「ああ、そうでした! ……あ、きっと、夢で食べた食事を思い出したたのかなー! ほら、バターたっぷりのトーストに、好きなだけハチミツを入れられるホットミルク! こんな素敵な朝ごはん、ずっと食べたかった。……ずっと、食べたいなあ」
「うちの寮に入ったら四年間、この朝食よ。本当にいいの?」
「はい!」
「ふふふ、威勢のいい返事が聞けるのもいまのうちかもしれないわね。いただきます!」
美紗子さんはトーストを食べた。サクッと、いい音がする。
僕も「いただきます」と言ってから、トーストに齧りついた。あらかじめ切り込みを入れた食パンにバターが染み込んでいる。いい具合に焼けたトーストを噛みしめると、バター特有のこってりとした旨味が口いっぱいに広がる。
噛んだトーストを飲み込まずに、ホットミルクを口に含む。ハチミツが入ったミルクのあたたかさと甘さが、濃厚なバターと絡みあって、心地良さが身体のすみずみまでいきわたる。
このハーモニーがたまらなく、いい。
僕がこの部屋に入居したのは、バターが好きだから……あまったるいハチミツが好きだから……でも、僕がいちばん好きなのは――。
―――
僕は美紗子さんと、どれだけのバタートーストを食べ、ハチミツ入りホットミルクを飲んできただろう。
「結局、四年目まで残ったのは勇二くんだけか。みんな、この朝食に飽きちゃうんだよね。もっと豪勢な朝ごはんを用意したいけど、家賃はあまり上げられないし……」
いまでは、ふたりで食後に皿洗いするのが日課になっていた。
「……僕は好きですよ」
「ありがとう。あーあ、勇二くんも卒業するし、来年度からは朝食なしにしようかなあ」
「そんなこと、しなくていい」
皿洗いを終えた僕は、まだ泡が残る手のまま、美紗子さんを抱きしめた。
「……勇二くん?」
「僕とはさよならだけど、本当のさよならじゃない」
僕は続けて、ある呪文を唱えた。
これからも、美紗子さんといっしょに朝食をとりたいから。美紗子さん、ごめん。
「幾千の母と幾千の父より受け継がれし力、いま響かせるときがきた。我が腕のなかにいる人の子の記憶のかけらを天に捧げます」
美紗子さんは目を閉じた。僕は、美紗子さんをリビングのソファに横たわらせると荷物をまとめて部屋を出た。
―――
「それでは、契約書にサインを」
「はい」
「今日からよろしく。……修一くん」
「はい!」
僕は美紗子さんの言葉に頷いた。
『化け物でも大学には通っておけ。バイトもするんだ。ニンゲンのなかで暮らすは、ニンゲンとして普通に生きるのが基本だ』
長は、いつも言っていた。大学に合格して初めて入った部屋が、美紗子さんが管理する学生寮だった。
故郷の山では食べられない、おしゃれな食事にびっくりした。故郷の山にはいない若い女性――美紗子さんの笑顔にドキドキした。
だから……僕は、ずるをしたんだ。大学四年生になったら、美紗子さんがもつ僕との記憶を消して、また『新入生』としてこの部屋に入居する。僕の化け物としての力は弱く、誰かのわずかな記憶を奪うことしかできない。やっかいなことに僕の外見は二十歳から衰えない。……だから、こうするしかないんだ。でも、もうこの街のバイトはほとんどこなした。四年後はどうしようか……。
「今年からはオムレツとサラダもつけるね」
「え?」
美紗子さんの言葉が引っかかった。
"今年"――?
「いつも、おいしそうに食べてくれてありがとう。"前"勇二くん。……えっと、それで……"元"譲くんだっけ? その前は……うーん。ここまでしか覚えてないや……」
「そんな……術が効いてなかったのか……」
「きみが思うほど、きみの力は強くないんだよ? だから! もう遠慮なんかしなくていいの!」
「美紗子さん……美紗子さん。でも、僕はずっと歳を取らないんだよ? それでもいいの?」
「いいの、いいの。そのときが来たら、超年の差カップルってみんなに自慢するから。……あ、そうか。同じ街にいたら、修一くんが若いままなのが怪しまれるのか……」
「美紗子さん。僕が育った山で暮らそう? 四年後……僕が卒業したら。山でも、ふたりでいっしょにトーストを食べて、ミルクを飲もうよ」
「ふふ。やっと言ってくれたね、プロポーズ! もちろんよ」
美紗子さんは笑った。僕が好きな、庭に咲くどんな花にも負けない素敵な笑顔だ。
僕はこれからも、どこにいても、美紗子さんと朝ごはんを食べていく。バタートーストにハチミツ入りホットミルク。そして、オムレツにサラダ。
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