又犬

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又犬

 オレは自分の前世を覚えている。  一本も混じりけのない白犬だった。  真っ白な日本犬は、来世は人間に生まれ変わるそうだ。それまで待てなくて何日も神様にお願いして人間になった。  似たような話の『元犬』という落語があるらしいけど、その元ネタはきっとオレのことだ。  飼い主はばあちゃんの姉妹で、オレのことをすごくかわいがっていた。でも、年寄りだからあまり散歩に連れて行ってくれなかった。オレもずっと一緒にうちの中にいて、一日に何回もランニングマシーンで走らされた。ばあちゃん二人は代わる代わるオレのことを抱きあげようとしたり、なでまわしたりするばっかりで息がつまりそうだった。オレは自由になりたかったんだ。 「お兄さーん、どうしたのー? こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうよぉ」  わき腹をつつかれて目が覚めた。顔をあお向けると若い男が見下ろしていた。 「どうしたのお兄さん、素っ裸で。誰か悪い人に会ったんじゃない?」  自分の腕を見た。毛が無い。前足には長い指が五本づつあった。手だ。その手を顔にあててみるとつるつるで毛がなかった。そっか、人間になったんだ。 「あー、日本語わかんねえのか。外国人か。どっかから逃げてきたの?」 「ウゥー、ワン、じゃなくて、あ、あの……」 「あ、日本語わかるの? 名前、なんてーの?」 「シロって言われてました」 「シロ? 四郎じゃなくて? 変わってんな、やっぱ外国人だな?」 「うーん……」 「お兄さん、いい体してるねえ。おまけに男前だし。モデルかなんかしてた?」 「?」 「ま、いいや。腹減ってんじゃない? メシおごるよ」 「はい、ありがとうございます」 「でも全裸はマズいから、そこのリサイクルショップで服買ってきてやるわ」  いい人に会った。牛の肉がメシの上に乗っているものをおごってもらった。男はオレの食べ方を珍しそうに眺めながら、いろんなことをしゃべった。時々オレのことを「おとこまえ」とか「いけめん」とか言った。それで仕事を紹介してくれた。 「年寄りの家に行ってさ、飯食わしてやったり、掃除したりするのよ。そういうの出来そう?」  今までと逆だな、と思った。 「うーん、したことないけど、やってみます」 「あ、そ。したら、何かビザとかパスポート持ってる?」 「なんすか、それ?」 「あー、そういう言うわけならこっちで全部用意してやるよ。じゃあ、住むところもないわけね?」  元の家には戻れないから、男の後についていった。ごみごみとした町の一角にある雑居ビルの窓のない小さな部屋に案内された。そこが新しいオレの家だった。オレの他に男が三人いて体臭とかカビの匂いがしたけれど、前の家のばあちゃんたちの香水やルームフレグランスよりはマシだし、何より暗くて狭いのが落ち着いた。好調なスタートだった。  オレは『多田野四郎』という名前をつけられて、高齢者の家に行って、いろんな手伝いをすることになった。自由になるためには働かなくっちゃならない。  仕事が入ったから事務所の男におしえられた家へ行った。びっくりした。だって、オレが犬の時にいた家だったんだもの。勝手知ったる元の家、懐かしいような気もするし、バレたらどうしよう、とも思った。でも、もう後には引けない、思い切ってピンポンを鳴らした。ばあちゃんたちがそろって出てきた。二人ともオレを見ると、ちょっと驚いて顔を見合わせた。それから頬を赤くして、ニヤーッと笑いが顔中に広がっていった。オレがシロだと気付いたわけではないみたいだった。 「た~だ~のさあ~ん」  しゃがれ声で妹の方のばあちゃんがオレのことを呼んだ。 「まだお掃除しているの? もうその位でいいわよ。お茶にしましょうよ」  掃除はいつも妹ばあちゃんがしていたのを見よう見まねでやった。我ながらうまくできていたと思う。ばあちゃんたちは一日に二回、お茶を飲みながら甘いものを食べる。オレは肉の方がいいけど、付き合ってやった。なんか元の生活に戻ったみたいだった。でも、これは仕事だ、お金をもらったらそれでオレの食いたいものを食って、行きたいところへ行くんだ、今は犬なんかじゃない、自由な人間なんだ、そう思っておとなしくしていた。 「私たちねえ、ついこないだまでワンちゃんを飼っていたのよ。でも、いなくなっちゃってね。寂しくってねえ」  でっぷり太った姉の方のばあちゃんが話し始めた。オレのことだ。 「そしたら、おとなりさんが犬よりいいものがあるわよって教えてくれて、それでお宅ンとこのサービスを利用することにしたのよ」  確かにオレは掃除も買い物もしたことはなかったな。 「犬は三日飼ったら恩を忘れない、なんていうけどあれは嘘ね。あんなにかわいがってやってたのにさ」  妹ばあちゃんが意地悪そうにニヤニヤ笑いながら言った。 「それはそうと、多田野さんはどなたかイイ人はいらっしゃるの?」 「イイ人って、なんですか?」 「もうっ! とぼけないでよ。イイ人。こ・ゆ・び。恋人、彼女よ」 「まだお若いんだから、独身でしょ? ね、そうよねぇ」 「……はい、そうです」 「どんな女性がタイプなのかしら? かわいらしいタイプ?」 「うーん、そうですねえ、どうだろう?」 「やっぱり若い方がいいの? 年上ってのはどう?」 「もう、あなたはすぐにそうやって問い詰めるような言い方をして。多田野さんが困ってらっしゃるじゃない」  姉ばあちゃんが妹ばあちゃんをたしなめたけど、どっちもどっちだ。姉ばあちゃんがオレの方に向き直って続けた。 「ねえ、多田野さん。殿方は若いお嬢さんばかりお好みになるけれど、年齢を重ねた女性というのもいいものよ」 「そうよ。経験豊富だからいろんなことを教えてあげられるわ」 「何を言っているのよ、あなたは学校の成績がよくったって、見た目も性格も悪いから全然モテなかったじゃない。経験豊富が聞いてあきれるわ」 「なによ、お姉さんだってたいした器量じゃないクセに。昔からデブだったじゃない? それなのにいっぱしの美人みたいに振る舞うからみんなの笑いものだったわよ」 「あなたは全然わかってない。そういうものじゃないのよ、男と女は」 「フンッ 相変わらず気取ってるわね」  なんとなくわかってたけど、この二人、本当は仲が悪いんだよな。オレがいなくなって、タガが外れちゃったみたいだ。だけど、何が言いたいんだろう? オレ、まだ付き合わなくちゃいけないかな? 「あら、まあまあ多田野さんたら、お口の端にクリームがついているわよ。取ってあげる。ここへいらっしゃい」  姉ばあちゃんが隣を示してソファの上をポンポンとたたいた。犬だったときはそれからずーっとなで回されたんだ。あの時とは違うヤな感じがした。でも習慣ていうのか、オレは素直に姉ばあちゃんの隣に座った。姉ばあちゃんはじいっとオレの顔を覗き込んでから、白いハンカチでオレの口の端を拭いた。それから体をすり寄せてきて、オレの手を握った。 「まあ、多田野さんの手、大きいのね。男らしいわ」 「まあ、イヤらしい、お姉さんたら。それなら私だって」  と言って、妹ばあちゃんもオレの隣に座って、オレはばあちゃん二人に挟まれてしまった。  やっぱり、臭かった。 「じゃあ、多田野さんはおひとりなのね。お若いのにおひとりでは何かとご不自由ではないかしら?」 「いや、そんなことはないですよ」 「何よ、お姉さん。多田野さんはこんなお仕事をするくらいだから、自分のことは自分でできるでしょうよ。不自由なんてしないわよ」 「だからあなたはわかってないっていうのよ。そういう不自由ではないのよ」  そう言いながら、姉ばあちゃんは片手でオレの手を握ったままもう一方の手をオレの太ももに置いた。グローブみたいにパンパンに膨らんだ、シミだらけの手だった。なんだろう、犬だったときになでられていた感じとは全然違う。あの時はいい心持ちになることもあったけど、人間になったらイヤでたまらない。気持ちが悪くて、肌にぶつぶつができた。 「どうしたの?多田野さん、顔色が悪いわよ。アラ、ヤだ。お姉さんたらそんなことして」  そういう妹ばあちゃんも目ヤニのいっぱい溜まった目を充血させて、今まで見たこともないような顔つきをしていた。 「あ、あの。そろそろ掃除の続きをしなくちゃ」 「もういいわよ、お掃除なんか。あとは妹にやらせるから」 「何ですって! アンタ何様のつもりよ? わからないの? 多田野さんはお姉さんみたいなデブにベタベタくっつかれるのが嫌なのよ」 「ふふん、モテない女のひがみってイヤね」 「あの、今日は早めに終わらせて、事務所に寄らないといけないんで仕事に戻ります」 「アラ、そんな話聞いてないわ。多田野さんの雇用主は私たちよ。あなたは私たちの言うとおりにして下さらなければダメよ」 「ねえ、多田野さん。私たち、こんな広い家にか弱い女二人っきりで暮らしているでしょう? 夜なんか心細くて仕方ないのよ」 「そうよ、もし強盗にでも押し入ってこられたらひとたまりもないわ。今夜は泊ってちょうだい」 「それは、事務所に聞いてみないと」 「ええ、じゃあ、事務所ってのに聞いてごらんなさいよ。あたし達の言う通りにしなさいって言うわよ、きっと」  結果は、泊まることになった。  こんなことならわざわざ人間になるんじゃなかった。何もかも前と同じだ。むしろ、ばあちゃんたちがベタベタ触るのが気持ち悪くって、前よりつらい。せめて贅沢してやろうと思って夕飯はオレの好きなものをリクエストした。焼き肉だ。こうなったらタダで思いっきり肉を食ってやろうと思った。 「気持ちいいわね、多田野さんの食べっぷりは。たくさん食べる男の人って素敵」 「お姉さんは、食べるの控えた方がいいわよ。それ以上太っちゃあ大変よ。女なんだし、年寄りなんだし」 「あなただってもう年寄りよ。そんなに変わらないわ」 「上カルビとサーロイン、もっと焼いちゃっていいですか?」 「どうぞ、好きなだけ召し上がれ」  二人は目を潤ませながらオレが肉を食うのを見ていた。  夕飯が済むと、風呂に入るように言われた。オレは風呂が好きじゃなかったけれど、同じ部屋の仲間や事務所の男に風呂は毎日入るものだと教えられた。風呂に入ることは人間になって面倒なことの一つだった。素っ裸で体をあちこちこすっていたら、姉ばあちゃんが背中を流してやろうかと声をかけてきた。犬だったころは二人の前で平気で小便をしていたけれど、人間になったら裸を見られるのもイヤになった。黙っていたらいきなり扉をあけられた。悲鳴を上げると、 「意外に初心なのね、かわいらしい」  とヒャラヒャラ笑っていた。  ばあちゃんたちの家は本当に大きくて、使ってない部屋がいくつもあった。オレはそのうちの一つの部屋に寝るように言われたけれど、なんかヤな予感がした。風呂から上がってしばらくすると、ドアをノックして姉ばあちゃんが入ってきた。 「リラックスしてよく眠れるように、少しだけお召し上がりにならない?」  この匂いは酒だな。オレ、酒飲めないんだよね。 「ボク、お酒はちょっと……」 「まあ、かわいらしい。そうね、若いんだから寝不足くらいなんともないわね」  と言ってベッドに腰を下ろして、オレの方ににじり寄ってきた。オレは恐怖で身動きが取れなくなってしまった。その時、またノックの音がして妹ばあちゃんが入ってきた。 「多田野さん、ホットミルクを持ってきたわよ。よく眠れるわよ。あらヤだ、お姉さん。何しているの?」 「あんたこそなにしにきたのよ」  そこからまた二人の言い争いが始まった。でも本当に何しに来たんだろう、二人とも。それで、オレは二人の何が怖いんだろう?ってぼんやり考えていた。その時、下の階からミシミシいう音が聞こえてきた。オレは聞き耳を立てたが、ばあちゃん二人は耳が遠いからお構いなしにケンカしていた。 「お姉さんは何かというとアタシに女らしい魅力が欠片もないっていうけれど、そんなの人の好き好きよ。わからないじゃないの。こうなったら多田野さんにどっちがいいか聞いてみましょうよ」  どっちの何がどうだっていうんだ? それより、やっぱり下の階に人の気配がする。 「あの、戸締りはしましたか?」 「ええ、ちゃんと閉まってますよ。はぐらかさないで、多田野さん。ねえ、私と妹とどちらが女として魅力的かしら? そうして、多田野さんはどちらと一晩お過ごしになりたくて?」  姉ばあちゃんが「一晩お過ごし」というところをねっとり強調して言うと、二人はぎゅうっとオレに詰め寄った。 「いや、はぐらかしているんじゃなくて。ほら、聞こえませんか? 誰か下にいるんじゃないですか?」 「何も聞こえないわよ」 「ちょっとボク見てきます」  二人を振りきって下に降りた。ばあちゃん二人もオレの後ろからピッタリついてきた。逃げると思ったのかもしれない。  台所の方からスース―風が吹いてきた。戸締りはちゃんとしただなんていい加減なことを言って、勝手口が開いていたんじゃないか?  明かりをつけてよく見ると、床が泥だらけだった。 「キャー!ど、ど、泥棒よー!」  ばあちゃんたちが悲鳴を上げた。 「早く、早く、110番!」  電話のある方に行こうとしたその時、目出し帽をかぶった大男がオレの目の前に立ちふさがった。片手に鉈を持っていた。 「ギャーッ」  パニックを起こしたばあちゃん二人がいきなりオレを男の方に突き飛ばした。大男は無言で鉈を振り上げて、次の瞬間オレの頭にものすごい衝撃が走った。とたんに目の前が真っ暗になって、何もわからなくなった。  それからどのくらい時間が経ったんだろう。オレは真っ暗な中をどこまでも落ちていた。いや、落ちているのか上がっているのかまっすぐに進んでいるのかわからなかった。オレは死んじゃったのかな? それで、これからどうなるんだろう? このままフワフワ浮いているのも悪くないな、なんて思っていた。ばあちゃんたちはどうなったかな? まあ、どうだっていいか? だって、オレのことあんな目に合わせてさ。人間になって、働いてお金を稼いだら好きなことができると思っていたのに散々だ。もう、人間にはなりたくないな。なんて考えていると、遠くのほうに真っ白い小さな光が見えてきた。オレの体はそこに向かっているようだった。だんだん光がまぶしくなって、頭がぼんやりしてきた。  目が覚めたら真っ白でフワフワな何かに囲まれていた。これ、なんだろう? 眼がよく見えない。でも、すごく静かでいい気分だ。フワフワを手で触ってみようとしたけど届かない。その自分の手をよく見ると白いモワモワした毛で覆われている。手が届かないから顔を向けて感触を探ろうとしたら、鼻の先に柔らかいものがあたった。ミルクの匂いがする。いい匂い。そういえばオレ、お腹すいちゃったな。お母さんの匂いもいい匂い。あったかくっていい気持ち。そっか、オレ、生まれ変わったんだ。また犬になっちゃったけど、その方が全然いい。働かなくていいんだもん。あーよかった。      この日、この白犬が生まれたのは動物のタレント養成事務所だった。白犬はのちにCMで大人気のタレント犬になる。生まれ変わって尚、人間に対して身を尽くさなくてはならない運命にあったのだ。
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