知らない方が幸せ

3/3
前へ
/3ページ
次へ
 春の兆しが見え、花粉症対策に外でマスクをする人の姿が増えてきた。そんな中、花粉症の純子と吉田は外での食事を回避するため、その日も社員食堂を利用していた。 「純ちゃんのつくった漬物美味しいね」  白菜の漬物を食べた吉田は周りに聞こえないように小さい声で純子をほめた。小さい声で言ったのは本来、食堂に食べ物を持ち込んではいけないからであった。 「ホント? 嬉しいな。冬は寒いし、温かくなってきたけど、私、花粉症だから、ここのところ、家にいることが多かったんだよね。だから、めきめきとお漬物の腕前が上がったようなが気がするの」 「なるほどね。すごいじゃん。漬物マイスターに訊きたいんだけど、コツとかあるの?」 「マイスターって。もう、照れるじゃん。えっと、コツだよね? うーんとね、やっぱり、ちゃんと漬けるのがポイントかな。  数週間前、確か土曜日だったかな。朝にカブを漬けたんだ。その日は朝ごはんだけ食べてランチはとっていなかったの。それで、案の定、お昼の3時位にはお腹が減ってしまったの。  空腹を満たすために、日本酒だけは家にストックがあったから、それを開けて飲もうかと思ったんだけど、肝心のおつまみがなかったの。ほら、お酒だけ飲むのも微妙じゃない? だから、まだ漬けてから5時間ほどしか経っていなかったけど、朝に漬けたカブを食べようと思ったの。  重たい漬物石をよいしょと、もってどかして、一切れ味見してみたんだ。だけど、全然、漬かっていなかったの。食感、味わいともに、お漬物ではなくて、お野菜って感じで、水気が多く、塩気が行き届いていなかったの。本来、カブを漬ける時間は1日弱くらいかかるから、やっぱり、ちゃんと漬けないとダメなんだと思ったね」  純子は苦笑いをつくりながら説明した。 「漬け込む時間って大切なのね」 「そうなの。吉田さん、浸透圧って知っている?」 「えっ? 突然話題を切り替えてどうしたの? まあ、聞いたことはあるけど」 「お漬物は化学の力である浸透圧によって引き起こされるんだ。浸透圧って、簡単にいうと、塩分濃度が高い方に水分が引き寄せられる作用をいうの。お野菜の周りに塩を塗ると、お野菜の細胞膜の外側の方が塩分の濃度が高いから、細胞膜の外側と内側とで塩分濃度が異なるから、均衡を保とうとしてお野菜の水分が外に出ていくの」  純子は小難しい説明を終えると、ぼそっとぼやいた。 「私、ここのところ、お酒で体がつくられているといっても過言ではないくらい浴びるようにお酒を飲んでいたの。だから、もし、私がお野菜になって漬けられでもしたら、体の水分が抜けて、しなしなに干からびるかもしれない」  純子は、もしもこうだったらという前提で、笑いながら自虐ジョークをかました。 「純ちゃんって博識と言おうと思ったら、そんなオチがあるとは……。  でも、すごいよ。純ちゃん。その辺のOLは浸透圧の意味を絶対に知らないよ」  吉田は手を丸め親指だけを立てて、グッドのサインを送ったあと、素直に純子の知識をほめた。純子は謙遜し、それほどでもないという顔をつくったが、ほめられて嬉しかったのか、まんざらでもないニコニコした表情を隠しきれずにいた。その後、少しの間をおいて純子は続けた。 「この話には続きがあるの」 「続き?」 「うん、実はね、カブがまだ漬かっていなかったから、漬物石を元に戻してフタをしたんだ。でも、それをとったのが2日後なの。つまり、3日間も漬けちゃったことになるの。気づいたときにはすでに遅し。  すんごい、しょっぱいカブのお漬物が完成したんだ。もったいないから、お酒やお水を飲みながら頑張って食べたけどね。ああいう時に限って、つくり過ぎちゃうのよね。3日間も漬けたからだとは思うんだけど、それにしても、お野菜から出る水分の量がやけに多かったのように思えたなあ。しかも、私の吞兵衛が移ったのか、カブから少しお酒のような香りもしたし。結局、お漬物は日本酒と一緒に食べるから別にいいんだけどね」  純子はしょっぱい思いをして食べた時のことを思い出しながら苦笑した。 「えっ、そうだったの? 大変だったね。どんまい。でも、一つ経験になったと思えばそれはそれでいいじゃない。お酒で思い出したんだけど、純ちゃん、漬物をいっぱいつくっていたんでしょう? 美味しい漬物がつくれるようになると、純ちゃん、飲むの好きだから、お酒の方も進むんじゃないの?」 「そうなの。飲みすぎちゃって大変!」  純子は言葉とは裏腹に楽しそうな笑みを浮かながら答えた。吉田はニヤッとした表情をつくってからさらに質問した。 「前に深酒すると、残しておいた日本酒やお水がなくなってしまうって言っていたじゃない? 漬物の腕前が上がるにつれて、お酒も進むだろうから、拍車がかかったんじゃないの?」 「それがね、不思議なことにそうでもないの。カブのお漬物をしょっぱくさせて以来、飲みすぎてお酒や和らぎ水のミネラルウォーターがなくなってしまうことはなくなったね。  あっ、分かった。お酒の飲みすぎで、私、アルコールに強くなったんだ」  純子が言うと吉田はまた笑ってしまった。それにつられて、純子の肩にかかった髪もゆらゆらとゆらめいた。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加