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3・ラバーズ
不意に、失礼します、と声が響く。今度は女の声だ。
「た、隆史くん……」
震える声はそう呟いたきり、止まってしまった。
聞いたことのある声だ。この声はもしかして……?
いや、まさかそんな。ありえない。
「……久しぶりだね。これ、覚えてる? 去年スカイツリーで買ってくれたキーホルダー。今もずっと使ってるんだ」
ちりんちりんと乾いた鈴の音が響く。
スカイツリー、そして鈴つきのキーホルダー。
――あぁ。
もう、間違いない。
そこにいるのはめぐみだ。一年ほど付き合っていたけど、とある理由で半年ほど前に別れている。いわゆる元カノだ。
その理由は――
「隆史ぃー! 嘘でしょ!?」
うわっ!?
突然乱入してきたヒステリックな叫びが俺の思考をぶった切る。
こ、この声は、まさか……?
「あ、私、春歌と申します。隆史さんとお付き合いしております」
春歌は自己紹介を早口でまくし立てると、周りの事なんかお構いなしに派手な嗚咽を上げはじめた。
――さて、話を戻そう。
めぐみと別れた理由。それこそが、すぐ近くでわんわん泣いている春歌だ。
それは、めぐみとの交際が始まってから一年が過ぎた頃のこと。変わらない日々はマンネリ化し、彼女とのつまらないケンカはどんどん増えていった。めぐみとの関係に深い徒労感を覚えた俺は、逃げるように新たな恋を求めるようになっていたのだ。
そんな時だ、春歌と出会ってしまったのは。
彼女のエネルギッシュな言動とスタイルの良さに俺は一気に惹き込まれた。その後のめぐみとの些細なケンカを俺は修復しようとせず、めぐみとの関係をそのまま終わらせてしまったのだった。
小さな罪悪感と大きな期待に胸を膨らませ、俺は春歌との幸せな日々にのめり込んでいく。
が、それは幻想だったことに気が付くまで、あまり時間はかからなかった。
彼女のエネルギッシュさは、裏を返せばただのわがままであり、それに振り回され続けた俺は急激に摩耗していった。
追いつめられた俺は、ワラにもすがる思いでめぐみとヨリを戻そうとしたのである。
しかし、現実は非情だった。
風の噂が、めぐみに新たな恋人ができたことを知らせてきたのである。自業自得とは言えすっかり萎えてしまった俺は、しばらく独り身でいようと先日決意したのだった。
と、ずっと続いていた鳴き声が、ぷつりと止まった。
「めぐみ……なんであんたが来てんのよ?」
怒りを湛えて春歌が毒づく。数秒前まで泣いていたとは思えないほどしっかりとドスの聞いた声だ。
「来ちゃダメなの? ていうか、泣き声うるさすぎるし」
鼻で笑いながらめぐみが毒を返す。
場の空気が一気に変わった。
これはやばい。口は動かないが、思わずため息が漏れた。
実は彼女たち、いわゆる犬猿の仲である。この二人が同室にいる時点で遅かれ早かれこうなるのは分かっていた。
弁明しておくと、俺と付き合う前からだ。たぶん。
俺は頭を抱えた。手も動かないけど。
「はぁ? 泣いちゃダメなの?」
「嘘泣きすんなっての」
苛立ちのボルテージが一気に高まっていく。こうなると逃げるが勝ちなのだが、色んな意味でそういう訳にもいかないのがもどかしい。
と、
「お、お二人とも、こんな場所で騒ぐのは……止めてあげてください」
不意に浴びせられた警告に、場がしんと静まり返る。
ん? 今喋ったのは誰だ?
女の声だけど、さっきまではいなかったはず。
「……あ、そうだ。そろそろここを発つの。いいかしら、ね?」
ちょっと不自然な割り込み方で、母ちゃんが一触即発の二人を退場させようと動いた。めぐみと春歌はお互いに小汚くののしり合いながら去っていく。
ふー。なんとか嵐は去ったな。
彼女たちのいがみ合いが聞こえなくなった所で、さっき警告した女が再び口を開く。
「ご挨拶が遅れました。私、大沼と申します。隆史さんと同じ会社で働いております」
え、大沼さん?
なんでここに?
大沼さんは、会社の二つ下の後輩だ。とにかく真面目で、こなしている仕事量は一番多いかもしれない。一人でいることが多く、口数も少なくめったに笑わない。長い黒髪をいつも下ろしている所から、こっそりついたあだ名がコケシだったりする。
「会社で隆史がお世話になったんですね……。来てくれてありがとうございます」
「いえいえ、隆史さんにはいつもお世話になってました。もっと恩返しをしたかったのですが……こんなに早く……」
「そう言っていただけて、隆史も幸せですわ。ありがとう」
と、遠くの方がガヤガヤし始めた。また誰かが来たらしい。
「ねぇさん、式場の方々が来たわよ」
「あらもう? 大沼さん、このあと火葬があるんです」
そうだった!
火葬が近いんだった!
さっきの二人のせいでだいぶ時間取られちまった。
頼む、誰か気づいてくれ!
俺はまだ生きてるんだよーーー!
――数分後、体が僅かに傾くのと同時にふわりと持ち上げられる感触があった。
あぁ……出棺されるのか。
この後俺は火葬場に運ばれ、狭い窯の中で骨になるまで焼かれ続けるのだろう。
暴れてやりたいが体が動かないんじゃあどうしようもない。
心の中には、諦めという名の闇が凄まじい速さで広がっていく。
もう、終わりだ……。
「あの……」
その時、大沼さんが小さな声を上げた。
「最後に……、お顔を拝見しても?」
「ええ、ぜひ」
母ちゃんが嬉しそうに答える。
よし!
よしよし!
俺の心に希望という名の光が差し込む。
まるで天にも登りそうな気持ちだ。まぁ、実際召されようとしているんだが。
とにかく、俺の目を見れば生きてることに気づいてもらえるに違いない。
さぁ、早く布をどかしてくれ!
眼前の白が取り払われ、そこには――
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