第一話 Darkness -暗闇からの訪問者-

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第一話 Darkness -暗闇からの訪問者-

イギリスの某市。大晦日の夜、夜空には花火が次々と上がっていった。 皆一斉にその様子を見つめていた。 ある者は歌を歌い始め、ある者は酒を飲み合う等をして、共に新年の始まりを祝った。 夜の空を、地上の暗闇を、空で咲き乱れる煌びやかな火の花は地上を照らした。夜空の星々は何を思うのだろうか。自分達の間近で高熱を帯びた花が咲くことを、迷惑だと思わないのだろうか。火傷を負ってしまわないのだろうか。空にいる神々も、何も言わないのだろうか。 少年は、ただひたすら考えた。 民衆が夜空に咲く眩しいほどに輝く花火を見つめているのに対して、少年は眩しく輝く花火の裏に隠れ真っ暗闇へと葬られた夜空を見つめた。 花火の輝かしい光に負けてしまったのだろう、星々の煌めきなど一切見えなくなっていた。 花火なんて、人の群れなんて、恐らく一生好きになれない。 光に照らされた分、路地裏の暗闇はより一層闇が濃くなっていた。 真っ暗な中、小さな小さな懐中電灯を手に暗闇の中へと走り去る。 少年には名前がない。 きっと昔に名付けられたのかもしれないが、生まれて、物心ついたときには両親は既にこの世から忽然と姿を消していた。 六年前までは赤褐色のレンガが積まれた孤児院に預けられていたが、異臭と汚物に包まれた生活にうんざりして自ら孤児院を脱出した。 孤児院を出て行ったものの、孤児院の職員は何一つ思うこともなく、少年を探すことはなかった。誰一人、少年を想うものなどいないのだ。 孤独に生きながら、少年は様々な罪を重ねて生きてきた。 こっそり他人の財布から金を抜き取ったり、衣類や道具まで盗んだ。パン屋でパンを盗んだことだってあった。今手に持っている小さな懐中電灯は、海外旅行に来た観光客の手荷物から盗んだものだ。 特に今日という日は皆隙を見せる。祭りとは実に愉快だ。人々は悦楽に浸ってしまうがために気が緩む。酒に酔っている間に、金を盗もうとすることなんてたやすいことだ。だから今回のような祭りや祝日は酒場の客をターゲットにできる。 さて、少年は暗闇の中裏路地をたどってとある酒場に向かって走っていた。 この街の裏路地や通路はあらかた知っている。近道など余裕である。 時々空に花火が上がっては裏路地でも眩しい光が照らしてくる。その度に地面が照らされ、現状を晒してくるかのように地面のその惨状が照らされる。祭りということでゴミが大量に落ちている。なかなか使えるものなどなく、ほとんどが食べかけの食べ物だったりする。 ふと道の先に人気を感じ取ったのか、少年は手元の懐中電灯の明かりを消しその場に捨てられたテレビなどの電化製品の山の陰に隠れて身を潜めた。 リズムが定まっていない足取りの悪い足音が聞こえる。恐らく酒にでも寄っているのだろう。時々その場に転んで数分間気を失ってはまた立ち上がって、よろめきながら必死に歩こうとしている。 しかし何故わざわざこの道を?観光客がここに来るとは思えない。 ましてや国やニュースなどでは必ず人気のないような場所にはいかないよう注意喚起がされているだろうし、ここに来たら犯罪に巻き込まれるだろう。 そう考えた時に、今歩いている人間が観光客ではないことが予想できた。孤児院を脱出して六年間の間に様々なことを経験している少年はそう考えた。 「おい餓鬼。」 不意に現れたのだ。電化製品の死体の山から男を観察しようと覗こうとしたときだった。 一体いつからいたのだろうか。背後には影で見えないが、背の高い男がいた。 花火が上がった途端、逆光のせいで表情が読み取りにくい。 ただ、にんまりと頬まで裂けているかのように不気味な笑みを浮かべていたことだけはわかった。 喉から悲鳴をあげそうになり、思わずしりもちをついてしまう。その拍子にゴミ山が崩れてしまい、酔っぱらっていた男がこちらに気が付いた。 ...不幸なことにここは一本道だ。完全に挟み撃ちになってしまった。 「餓鬼がこんなところで何してんだァ?夜遊びは未成年がヤルことじゃねえんだよ。」 少年の後ろからシャツを引っ張って持ち上げる。さっきまで酔っぱらっていた男は不思議なことに何事もなかったかのように突っ立っていた。 俺を持ち上げた背の高い男は酔っぱらっていたはずの男のところまで寄る。そして持ち上げられている少年を男に差し出した。 「なあリーダー、コイツどうします? 俺的には、殺してしまうか売りさばくかのどっちかがいいかと思うんスけどネェ。」 空に上がる花火が照らした光により、男の姿がやっと見えた。少年はその男の姿に背筋が凍った。 男の口は本当に裂けており、赤黒い舌にはピンがいくつもつけられている。狐のように釣り目で、身長が異常に高かった。 体は細いのに、少年を片手で持ち上げられるほどの腕力を持っている。 黒いパーカーに黒いズボン、明らかにこの男は一般人とは程遠い。 そしてリーダーと呼ばれた少年の目の前にいる男は、黒いスーツにスカーレットのネクタイ、乱れることなく正装しており、驚くことに酔っぱらいのイメージとはかけ離れるくらいに顔が整っていた。 「ほう....」と、少年が持ち上げられている高さまで背を低くし、まじまじと見つめては隅々まで舐め回すように観察した。特別いやらしい目でとかそんなこともなく、まるで会社の社長が商品を視察する際に商品の評価をするために鑑賞しているようだった。 「さほど疫病を持っているわけでもなさそうだし...パッと見スタイルの方は...そうだな....。君、ここに暮らしてどのくらい経つんだ。両親は?って、俺が質問してもそんな素直に答えてくれなさそうな性格してるね...。」 人を見下すかのような口調でもなく、違う場面であれば、芸術品を隅々まで鑑賞して独り言を言っている人にも見えなくはない。 と、男は突然少年の体を触り始めた。 シャツを少年の胸元までめくり、素肌を胸元からへそへと優しくなで始めた。 率直に少年が言葉を漏らす。 「気持ち悪い。」 言葉を聞いた男は態度を豹変させ、少年を睨み付けた。 顔の整った男が何か言いたげだったか口を開きかけた瞬間、先に背の高い男が口を開いて怒号をあげた。 「テメエ!餓鬼の分際で文句を言うんじゃねえ!!」 持ち上げている少年を容赦なく地面に叩きつけようと天へと持ち上げた。 すると顔の整った男は少年を地面に叩きつけようとする腕を掴んだ。 「やめておけ、子供にはそんな言葉は通用しないよ。」 「リーダー!アンタがそんなんだから商品が逃げていくんスよ!」 「今その商品の回収をしているんだ、もう少し協力してくれ。」 怪しい二人の大人が口々に"商品"という言葉が出てくることに疑問を持つ。 ぱっ、と、口の裂けた男は手を離して少年を離した。 しかしそう簡単に逃がしてくれる訳では無い。倒れた少年の頭を踏み押さえる。起き上がろうにも、起き上がることが出来ない。 先程少年の事を「殺してしまうか売りさばくかのどっちかがいい」と言っていた。それは少年に対しての言葉なのだろうが、"売りさばく"という言葉に違和感を持つ。 冷静に考えて、少年は瞬時にやっとこの状況がどんなに恐ろしいことなのかを理解した。理解するまでに、そんなに時間はかからなかった。 「リ、リーダー!!右脇腹大丈夫スか!?」 「え?ああ、平気だよ。大した傷ではない。」 暗闇だったがためによく分からなかったが、顔の整った男の脇腹から液体のようなものが地面に滴っているのがふと見えた。 いや、普段暗闇に身を潜めている少年は暗闇に目が慣れている。それは度々見るものでもあった。 「あの商品(子供)はうちの拳銃を奪ってね、扱いにあまり慣れていないみたいでとても可愛らしかったよ。」 「チッ、後でそいつを始末してやるッスよ。」 「まあいい、あの商品()は前からそんなやつだから仕方ない。乱暴な商品(子供)で大変だったよ。」 __この男は、酔っ払ってなんかいなかったのだ。 おぼつかない足取り、リズムの定まらない足音。それは、"商品"と呼ばれた子供が逃げて...拳銃を奪ってこの男の脇腹目掛けて発泡した...その傷を抑えながら歩いていたのか。 倒れたのは、脇腹であるものの痛みのあまりに傷を押さえつけようとしていたから...なのだろう。 と言っても、顔の整った男は怪我をしている割にはそこまで痛そうな表情もせずに涼しい顔をしている。 スーツの胸ポケットから真っ白なハンカチを取り出し脇腹の傷口を抑える。 ふと少年の脳裏を追い打ちをかけるようにして更に疑問が過ぎる。 その子供は...その後どうなった? 俺はこれからどうなるんだ? 俺は今からコイツらに一体何をされるんだ...? 考えれば考えるほど想像だけがたくましくなっていく。どんどん大きく膨らんでいく。そんなことが現実に起きたら、自分はどうなってしまうんだ。 「あの商品(子供)の代わりにその子供を連れていけ。"手直し"すれば売り物になる。...」 「へーい。大人しくしろよ?」 連れていかれる。確実に何かされる。 それが何なのかは正確には分からないが、恐らくこうされるだろうという想像だけが少年に恐怖を煽った。そんな少年の表情を一目見ようと口の裂けた男は顔を近づけた。 頭を踏みつけていた足を退かした瞬間、瞬時に起き上がってその男の顔めがけ右拳を食らわせる。 「ヘブゥッ!!?」 相手が子どもだからだといって気が緩んでいたのであろう。相手は確実に、完璧に油断していた。 その後は無我夢中で薄暗い裏路地を、ただひたすら死にものぐるいで走った。 ただその時は頭が真っ白だった。 死にたくない。 その一心だけで、走り続けた。 「餓鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」 聞こえるはずのない声が聞こえる。背後から、近づいてきている。 叫ぶ男の声は、先程殴られたことに対しての怒りも感じず、いや、厳密に言えばその怒りも混じっていた。 しかしその怒りとは別に、笑いながら近づいてきている。 腹の底から、まるで獲物を見つけて狂喜に満ち溢れるような、不気味な笑い声。もはやそれは、人とは思えないような笑い声。 悪魔の笑い声だ。 「ヒィハアハハハハハハハハァァ!!待てよクソ餓鬼いいいぃぃ!!俺と鬼ごっこしてえのかあぁぁぁ!!?」 男の声が、確実に近づいてきている。 こんな命懸けの鬼ごっこなんて、早く終わって欲しい。 逃げて、逃げて、走って、ただひたすら、必死に走って、急な曲がり角を曲がり、行き止まりの狭い隙間に滑り込み、泥だらけになり、道端に捨てられた割れた瓶やガラス破片が茨の棘の如く手足を傷つけても。 花火は幾度も空で放たれる。 花火の光は幾度もこの絶望のシーンを照らした。 逃げる少年と、異常な速さで追いかける男。 気がつけばシャツもズボンもボロボロ、肌も露出しており、泥だらけ、血だらけになっていた。 必死に走って、走って、走った先は__。 「ゲームオーバーだ、餓鬼。」 ___目の前が歪んで見えた。 目の前は高く高く積み上げられた岩の数々。 同じ形をしており、文字のようなものが削られている。...そんなもの見ている場合じゃない。 「なァ餓鬼ィ、お前名前なんて言うんだ?」 ひんやりと冷たい冷気を感じるのか、或いは自分の背筋が凍りついているのか、両方か。 背後に感じる威圧、いや、それ以上に恐ろしいもの。これは殺気だ。この男は...人を殺すんだ。 ボンッ、と両肩に手を置かれ、自分の首に細い刃物が突きつけられる。指先一つ一つに、刃が繋がれている。 「早く名前教えてくれよ...なあ?」 子供をあやす様に、しかし狂喜に耐えられず震えた声で、少年の耳元で囁される。男の顔が近い。後ろから少年の顔を覗き込もうとする。 見たくない、そう思った少年は目を逸らそうとする。 だが恐怖のあまりに体が硬直してしまう。金縛りのように、男の不思議な力で体を動かされないようにされているかのような気分だ。 男の"恐怖"に支配されたのだ。 「なんで....俺の名前なんか....。」 悲鳴は喉の奥から溢れるように吐きそうなはずなのに、会話ができる様な声が出ない。掠れるように、震えるように、少年は力を振り絞って声を出した。 少年の首に突きつけた刃が、目の前の高く積み上げられた岩の方へと指した。 それに釣られて少年もそちらの方を見る。 「んじゃヒント。これ、なーんだ...ヘヘヘェ?」 見たくないのに、見てしまう。 それでも少年の心とは反して体は言うことを聞かずにその岩を見つめる。 その岩は、見覚えのある形をしていた。 十字の形をしたそれは....十字架。ここにあるのは全て、墓石。削られた文字は全て、死んだ人間の名前だった。 それがわかった瞬間、また更に恐怖が少年に襲いかかった。 「そーんな顔すんなよ。短い間だったけど、俺は鬼ごっこ超楽しかったぜ? そのお礼に、お前に取っておきのプレゼントをしたいと思ってな...。」 墓石の山の方へと指した刃が再び少年の首に突きつける。今度は確実に、その首を掻っ切るつもりらしい。 少年の喉が切り裂かれ、色鮮やかな血飛沫を上げるビジョンが見える。そんなもの、見たくないのに。 男は少年の首元に人差し指の鋭い剣の爪を、じわりじわりと近づける。 ひんやりと冷気を感じる。首元に近づけられた剣の爪に、自分の首は拒絶反応を起こしたかのように血管の血が引いていく。 ニヤリと、男は不敵な笑みを浮かべた瞬間、 「アンタ専用の墓を、お前にくれてやろうと____ッ!!」 男の言葉が途切れ、少年を捕まえていた体は力を抜いたかのようにぐったりと少年の方へともたれかかった。 ___空間中に轟く、花火とはまた別の音と共に。 男がもたれかかった瞬間恐怖心により少年はその男を突き飛ばした。 と、その瞬間少年の頬に何かが付着した。 液体のようなものだと思い、その液体をシャツで拭った瞬間、花火が上がった。 拭ったシャツと、倒れた男の頭から、新鮮で色鮮やかな鮮血が照らされた。 ぐったりと倒れた男は動く気配もなく、生きているようにも思えない。もし今日、花火さえなかったら、その男は酒の飲みすぎで突然意識を失い道端に倒れたと思い込めたのかもしれない。(こんな状況のため流石に無理があるが。) 恐怖心と同時に好奇心が高まり、恐る恐るその男に近寄ってみる。 と、男の顔があるであろう場所を覗き込もうとしたタイミングで再び花火が上がる。 ...不幸なことにその男は、仰向けに倒れていた。仰向けに倒れていなければ、悲惨な光景を見ずにいれたのかもしれない。 顔の....右頭部が無くなっている。鼻より上、顔の四分の一が、無くなっている。花火のタイミングのせいで、見えては行けない、見たくはない頭の中身まで見えてしまった。 銃撃戦なんて、スラム生活をしている中で幾度も見たことはある。それで何度か人が死んだところを目撃したことはあるが、ここまでグロテスクな死に方をするところを見るのは恐らく初めてなのかもしれない。 ハッ、と少年はあることを考える。 男が耳元で囁いていた時、左耳の方で囁いていた。いや、それ以上に、顔を覗き込んだ時は、自分から向かって左側の方からだった。 仰向けに倒れる男の死体は、男の目線からは左部分。もし命中場所がこの場所よりも少しでもズレていたら....。 考えるだけでも背筋が凍る。この男の頭を見事に撃ち抜いた者は一体誰なんだと辺りを見回す。 花火の光と共に、もう1つの影が目の前に見える。 影が見えた瞬間咄嗟にそちらの方向へと目を向ける。 そこに佇んでいたのは、予想外の人物だった。花火の光が逆光になっても、それだけは分かった。 灰色のベールと長いレモン色の髪、そして右手には、その見た目に似つかわしくない、物騒な形をした物体。 よく見ようとしなくとも、少なくともそれが銃だということはわかった。 その凛々しい顔立ちと服装から、その人は女性。あの服装と身なりは、恐らくあれは教会のシスターだ。 まさかの人物にただただ驚いてばかりだった。急な展開に頭が追いつけずにその場に立ちすくんでいた。 するとその女性はゆっくりと少年に近づいた。 また殺そうと狙ってくるのか、警戒心が少年の足を動かす。 後ろの方へと後退りしながらも、少年はその女を見つめていた。 手には物騒な物を持っているのに、身なりと立ち振る舞いだけが凛々しく美しい、そんな矛盾した光景が不思議で仕方なく思える。 後退りしていると、行く手を阻む墓石の山に背中が着いた。それでも女は容赦なく近づいてくる。 「来るなよ....、俺を殺すんだろ、なあそうだろ!?お前もアイツらみたいに俺のこと殺そうとするんだろ!?」 必死に抵抗をするように、無駄だと分かっていても威嚇するように叫ぶ。心の奥底の怯えのせいか、微かに声が震えている。 少年の威嚇に女はピタッと体が止まる。驚いてしまったのかと思うと、女は、フフフッ、と小さく笑った。その微笑も声も可愛らしさが感じられる。 「やっぱり、子供ってとても元気ね。そのくらい力に余裕があるなら、もう心配はいらないみたいね。」 その優しい声には温かさを感じる。とても柔らかく、静かで可憐な仕草を見せる。その姿にうっとり見とれていると、 「坊やの頭が吹っ飛ばずに済んだわ。この男ったら、坊やの近くにピタリとくっついたりするもの。巻き込まないように狙いを定めるのはそう簡単じゃないのよ。」 ガチャッ、と弾丸を装填させながら当然のように冗談を零す。可憐で優しい声で話しながら、弾丸を装填する。もはや恐ろしさどころの話ではない。 再び女の足元にある男の死体に再び目をやる。 やはり男の頭が吹き飛んで血を流している。そのぐらい威力があるということだろう。 女が持っている銃は、拳銃なんかではない。拳銃でこんな威力が出るわけが無い。 片手に持つその銃は、銃口が二つある。 それに銃弾を装填した際に中折式だったことが確認できた。 女が持っているものは、散弾銃だ。 やはり可憐で清楚な見た目と男の頭の四分の一をぶち抜いた物騒な銃の組み合わせは余りにもイメージが合わなすぎる。 唖然としているところを「坊や」と女に声をかけられ、はっと気がつく。 「墓石に名前を刻まれたくなければ、今すぐここから立ち去りなさい。」 そう言って女は優しく微笑む。しかし少年はそんな女の表情なんかよりも、散弾銃にしか目がいかなかった。 「...お前さ、何でそんなものを持ってんだよ。シスターなんだろ?」 「ええそうよ。」 「...なのに何で...」 「これ以上はダメよ。」 再び少年が問いかけようとした途端、優しい微笑みが豹変して女の表情から笑顔が消えた。 その表情は、虚無そのもの。まるで何かの拍子に笑うことを忘れてしまったかのような、無機質な表情だった。 「とにかく死にたくなければ黙ってここから去って頂戴。これを貴方にあげるから、貴方は生きたいのなら何も知らずに生きなさい。」 少年の方へと咄嗟に歩み寄り、ポケットから札束を出したかと思うと、少年に差し出した。差し出されたのは、分厚い50ポンドの札束。札束の量に目を驚かせた。こんなに稼ぐなんて、彼女は一体何者なのかと疑問も浮かぶ。そもそも彼女がどのようにして稼いだのかすらも不明だ。 「こ、これ、いいのか!?」 「いいから、これを受け取ったら早く行きなさい。」 無機質な彼女は花火の光が上がると共に逆光のせいで不気味に見えてしょうがなかった。 少年が少々脅えているのを見たのか、女は少年を安心させようと、ふと再び微笑んだ。 「いきなさい。」 その言葉を聞いて、少年は札束を奪い去るように咄嗟に受け取り、早急にその場を離れるよう走った。 その際通り過ぎた男の死体が自分の景色の中にほんの一瞬だけ見えた。それが、男を最後に見た瞬間である。 その言葉は、一体どちらの意味だったのだろうか。 いや、両方なのだろう。 彼女があの状況の中そう言うのならば。 翌朝、彼は再びあの墓石の積まれた場所を訪れた。 当然そこに彼女がいる訳でもないが、彼女と会った記憶だけはそこに残されてるだろうと思った。 昨日そこにあったはずの男の死体は既に消えて無くなっていた。 ただ、真っ黒に染み付き乾いた血溜まりの痕を残して。 微かに男が倒れたことを物語るように、血溜まりには人の倒れた痕跡まで残っていた。 景色こそ悲惨なものではあるものの、何事も無かったかのように空気は静かであった。 あの時の光景を、少年は忘れられなかった。 その後少年は、裏路地に残された廃墟で寝泊まりをしていたが、眠りに落ちる度にあの時の男の笑い声が頭にこびりついて離れなかった。 まだ、生きている気がしてならなかった。 時々顔を失った男が這いずり回って追いかけてくる気がしてならなかった。 そして必ずその後は、銃声が鳴り響いて、目が覚める。毎晩毎晩そんな悪夢にうなされてばかりだった。 少年はあの日に渡された金で安い服と絆創膏を買った。とはいえ金はまだ余りに余っている。 1枚ずつ慎重に数えてみると、50ポンドの札が15枚、750ポンドもあった。これがあれこの先まだ生きていける気がした。 とはいえまだ疑問は残っている。 まず自分のことを連れ去ろうとしたあの顔の整った男は一体なんの目的で子供を商品として売っていたのだろうか。 利益のためとはいえ、異常なやり方のせいでそれだけじゃないような気がしている。 そして、自分のことを救ったあの女。彼女は結局何者だったのだろうか。 暫くして深く考えてみるも、やはりあの服装と着こなし方はどうみたってシスターだ。シスターがなぜ散弾銃を片手に持っているのか、理解ができない。 また、自分にこんなに大金を渡してきて、どのようにして彼女はこんなに稼いでいるのかも気になっていた。 散弾銃を手に大金を稼ぐシスター...もはやそれは、"殺し屋"なのでは無いかとふと答えが浮かび上がる。 殺し屋というレッテルをあの日の彼女に貼り付けてみると、違和感がない。そう、彼女は殺し屋だった。少年はそう確信した。 ....一体なんのために? 一度確信したものの、再び疑念が浮び上がる。 殺し屋とはいえ、彼女のあの服装はシスターだ。シスターが殺し屋に堕ちるなんてことは有り得るのだろうか。 日々神に祈りを捧げるシスターが人殺しなど、それは罪なのでは無いのだろうか。 だがあの時の様子は、人殺しになんの躊躇もなく平然としていた。 彼女は、人を殺し慣れているのか...? それに何故そこまで人を殺し慣れているのだろうか? 金のためなのかもしれない。だがあの時の彼女に、私欲なんてものが感じられなかったような気がした。 疑問が浮かんではまた別の疑問を呼び寄せ、遂には考えることが嫌になってしまう。考えるのをやめて、少年は裏路地を通って商店街を目指した。 ...ついでに言えば、少年がこの大金を貰ったその後、スリや万引きをやめるようになった。こんなにも大金があれば、しばらくは罪を犯してまで生きようとする必要は無いのだ。 できるのであれば、この大金でどこか居場所を作れるようにしたい。 とはいえ少年は孤児院に預けられ、そしてその場所を抜け出して長い間学業に励んだことなどなかった。 基本的な知識は様々な場所へと移るたびに学習してきたが、恐らくこれだけでは生きられるような気がしない。 しかしそれでも、孤児院だけは行きたくなかった。 そこに住んでいたら、気が狂いそうなのだ。 ...自分の周りの人間のせいなのか、あるいは環境のせいなのか、いや、むしろ両方なのであろう。 自分に不幸が付きまとって、一生逃れることのできない人生に放り込まれたのだ。 いつも、暗闇の中、ドブネズミのように生きてきた。 そこに誰かが手を差し伸べたら、なんて考えることも無くなった。 しかし...あの日彼女に出会ったときは、何かが違っていた。 金をもらったのはとても嬉しいことではあるが、それとはまた別の何かを感じた。 少年が核心に触れようとした瞬間に見せた無機質な表情。今思えばあれは、少年のことを想っていたのだろう。 彼女のその表情を見せる前の、暖かな声と笑み。 花火の逆光で不気味に思えていたその姿は、今は美しく思えた。 どこか、懐かしさを感じる。 ____いきなさい。 再び脳裏を過る、あの女の声。 表情は微笑んだものの、声は険しそうに、だがどこか優しさを感じる。 彼女がどんな思いで、あの銃を手にしているのだろうか。 もしかしたら、彼女はこの街のどこかにいるのではないかと考える。 しかしこの街に教会や聖堂などといった建物は見かけるものの、そのようなシスターなんていないだろう。冷静に考えてみればそうだ。 そもそも神に祈りをささげるシスターが人を殺して金を稼いでるなんて、常人の耳に流れ着いたら警察沙汰になる。 この街にいるのであれば、彼女とまた会えるだろう。 そう思って、少年は血だまりの乾いた行き止まりを去った。 殺伐とした風景と、ひんやりと冷たい空気、それでも相変わらず、そこに積まれた墓石は変わらない。 ただ、少年が背を向けた瞬間、ほんの微かな囁き声で「早く死ね」と言われてた気がした。 死んであの墓石に刻まれるのであれば、殺されて死ぬより自然に身を任せて死にたいと、先のことがわからずともそう考えた。
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