プロローグ

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プロローグ

 夕刻から降り始めた冷たい雨は、数多(あまた)もの人工的な光を落とした漆黒の海面を無情に叩き、夜闇を煙らせている。  男は、小刻みに震え続ける海面から顔を上げると、傍らに聳えるレインボーブリッジに目線を移した。赤やオレンジといった派手な色に染め上げられて、ただじっと佇むその姿は、神々しくも恐ろしい。  寒さだけではないモノにぶるりと身を震わせてから、男はゆっくりと海に背を向けた。  目の前には、貧相な男がいる。フードで顔が半ば隠されていても判る、お調子者で小心で、憐れなネズミのような男は、隙あらば逃げ出そうと目論んでいるのだろう、そわそわと落ち着かない様子だ。  ───そう簡単に逃がすかよ。  僅かに俯いた男は片方の口角を厭らしく上げた。  ぽたり、ぽたりと透明なビニール傘の縁から水滴がしたたり落ち、男の肩をしとどに濡らす。 「あ……あの……」  いつまで続くとも知れない沈黙に堪えきれなくなった[ネズミ]が、恐る恐る男に声をかけた。フードだけで雨を(しの)いでいる[ネズミ]の黒縁眼鏡には幾つもの水滴が纏わりつき、レインボーブリッジの照明を細切れにして映し出している。  雨音で聞こえなかったのかと思い、もう一度口を開きかけた時、男が、差していた傘をぐいと上げたので、[ネズミ]はそのまま口を閉ざした。男は口もとに笑みを(たた)えてはいるが、その目はゾクリとするほど冷酷な光を放っていた。 「君は、僕に、借りがあるよね?」  囁くような声音だが、やけにはっきりと[ネズミ]の耳を打つ。 「たくさん、あるよね?」  [ネズミ]はごくりと生唾を呑み込んだ。  怒声ではない。逆に優しいとさえ言えるほどの静かな声は、怒声よりもよほど恐怖心を煽る。
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