深く、世界の果てのその先へ

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深く、世界の果てのその先へ

 朝日が窓の隙間から遠慮がちに射し込んでいる。  そう他人行儀にならなくても良いじゃないかと、窓に歩み寄り一気にカーテンを開ければ。  視界がほんの一瞬だけ輝きに染まり、思わず奈々美は目を細めた。  埃の溜まった部屋で朝陽がちりちりと踊る。  久しぶりにアトリエの扉を開いたが、雑多な風景はやはり変わっていない。 「まあ、私が片付けないから当たり前なんだけどさ」  奈々美は誰に言うでもなく呟いた。  部屋の主たる彼女しかアトリエの使用者はいない。  それぞれの画材や道具の場所を視界の隅で確認しながら、部屋の中央のイーゼルに置かれた何も書かれていないキャンパスに近づく。数日前に地塗りだけを終えて乾燥させていたものだ。  陽を受けたそれは、眩しさと共に奈々美の瞳に映った。 「うん。今日は、描けそうな気がする」  キャンバスの前に座り、大きく息を吸い込む。  何を描くかは、キャンバスが教えてくれる。より正確には、キャンバスを眺めているとこれぞというものが浮かんでくるのだ。  もちろん、何も浮かんでこないこともある。  そんな時は辛いし、筆をとってみてもやはり納得のいくものはできない。  学生の頃から、絵は好きだった。  何度かコンクールで入賞を果たしたこともあるし、今でも仕事の合間の休日にこうして描いている。 「あ、そうだ。今日は調子が良さそうだから……」  服から携帯電話を取り出して、電話をかける。 「あ、もしもし? おはよう。わたしわたし。今日さ、仕事終わったら迎えに来てくれない? アトリエまで。うん、そう。今日、調子いいみたい」  顎と肩の間に挟みながらせわしなくアトリエ内を歩き、画材の準備をする。 「え、うん。気をつけるね。そっちも頑張って。あ、いつものやつも一緒に買ってきてね。うん、うん。それじゃあね」  通話を終え、ふう、と息を吐いてキャンバスの前に腰かける。  何も描かれていないそこを、じっと、布の貼られたその僅かな目地の凹凸ひとつひとつまでじっくりと見つめる。    ○   ○   ○  ペインティングナイフを、とん、と面に当てれば滴の落ちた水面のようにキャンバスに波紋が広がっていく。  はじめはゆるやかに。そしてやがて波打つように。 「やっぱり。今日は見える(・・・)日だ」  波打つキャンパスのその中心から、どぷんと水音をたてて一匹の金魚が跳ねる。二度、三度と跳ねていくつもの水紋を残す。  重なり合ったそれらは共鳴する音叉の波となりキャンバスそのものを拡張する。ぐんにゃりと伸び拡がったそれはなおも波を生みだし、やがて大海原となった。  全方位、水平線。  ぷかぷかと腰かけている椅子に揺られながら空の青と海の青の境目を眺める。  辺りを見回しても視界に入るのはただ青だけ。  雲ひとつない空。島影ひとつない海。  ふと、視界の外れから一匹のウミネコ。  どちらの青にも染まらないそれはとても鮮やかに見えた。  羽を広げて風にたゆたっていたが、不意に狙いを定めて滑空。短く、鋭く風を切って海面を刺した。  海に、穴が開いた。  ウミネコが開けた小さな穴は渦と巻いて海と空を吸い込んでいく。  すべてがすっかり吸い込まれた後、そこに残ったのは星空だった。  浮遊感と共に全天に瞬く星々を見つめる。  遠くへ手を伸ばし、星の一つに触れてみる。  手に取った惑星はガラス玉のように透き通っていて、指でつまんでかざしてみれば透かして向こうを見ることができた。  楽しくなって、二つ、三つと集めて並べていく。  そのうちに、いやに輝く赤橙色の玉が転がってきた。  太陽に見立てた球の周り。  同心円上にそれぞれ惑星を並べていく。  水星、金星、地球、と呟きながら並べたところで、小さめのガラス玉を二つ、地球の横に据えた。  月が二つある光景を想像してみると、とても愉快な気持ちだった。  ガラス玉の上はどれほど賑わっているだろうかと顔を近づけていく。  きっと、二つ昇った月にみんな慌てているに違いないといたずらに心を弾ませる。  ガラス玉からは、餃子の香りがした。  それを皮切りに、ひゅるひゅると自分の意識がガラス玉の中に溶けていく。  宇宙は折りたたまれて元のキャンバスになり、星々はうねうねと膨らんで元のアトリエの風景を形作っていった。  酩酊感と共に窓を見れば、霞む視界に月が二つ。  頭をとんとんと叩いて数度、目を瞬かせると輪郭のはっきりした月が一つになった。  呆れたような声が頭上から響く。 「奈々美。迎えにきたぞ」 「あぇ……、う、いま、なんじ?」 「19時。よっぽど深く潜ってたんだな」  奈々美が首を上に傾けると、奈々美が迎えを依頼した男性の姿を認識できた。  彼は手に料理の入った袋を持っていて、餃子の匂いはそこからきていた。  現実と夢の狭間の世界から覚め、キャンバスもう一度眺める。  そこには純白のままの世界が佇んでいた。  それを見て奈々美は満足そうに頷き、にへら、と締まりのない顔をした。 「うん、完成した」 「……何も描いてないけど」 「ごはん食べたら青司君にも見せてあげよう。ごはん、ごーはーんー」    ○   ○   ○  彼が買ってきた中華を食べながら、ビール片手に奈々美は語る。 「つまり、芸術ってのは“創る”ものじゃなくって、“在る”ものなんだなあ。分かるかー、青司君」 「率直なところ、全く分からん」 「そうかぁ。分からんかぁ」  奈々美はくつくつと笑って餃子を口に放り込んだ。  創造、創作とは言うものの、奈々美は何かを無から生み出しているとは思っていない。  すぐれた彫刻家は、石の声が聴こえると言う。またすぐれた作曲家は、譜面は神がつくっていると言う。  キャンバスは、己の中にあるものを写しているただの鏡に過ぎないのだ。  だから、奈々美にとっての芸術はあの壮大な夢想の旅が終わったことで既に閉じている。その足跡を残しはするが、そこに何を感じ取るかは、後に見た者が決めればいい。 「青司君が買ってきてくれる餃子がないと、芸術の世界から帰ってこれない。ただそれだけの話なのだよ。簡単でしょう?」 「ほっとくと二日でも三日でも絵の前にいるもんな」 「私の芸術世界に時間なんてないからね。匂いもないけど」 「だから好物の匂いに釣られて戻ってくるのか」 「そういうこと」  食事を終えた奈々美は箸を鉛筆に持ち替えて再びキャンバスの前に座った。  後ろで青司も椅子に座ってその様子を見ている。 「さて、そんなら約束通りにお見せしましょうか」 「今日中に描きあがるのか?」 「まさか。一ヶ月くらいかかるよ。だから今日は下書きだけ」  それでも、奈々美の中にはすでに完成した絵がある。  迷いのない動きで、キャンバスに鉛筆の黒を乗せていく。  十数分の後に描き上げられたのは、通路の先にある一枚の扉の絵だった。 「……これが、奈々美が見てた世界か?」 「いんやー、全然。これっぽっちも。でも、これでいい」  扉がある、ということ。  つまりそれはその先がある、ということに他ならない。扉を開けた先にあるのは、無限の芸術世界がいつでも広がっているのだ。 「扉の先、ねえ。なんか、開けたら奈々美が絵を描いてそうに感じるよ、俺は」 「青司君がそう思うなら、それで正解なのだよ、うん」  創作物の価値は、それと対面した者の中にしか生まれない。  もう一度、それだけを言って奈々美は大きく伸びをした。 「青司君、そこのスプレー取って」 「……これか?」  定着材を受け取り、下書きをしたキャンバスにまんべんなく吹き付ける。 「さ、今日はここまで。帰ろ、青司君」 「昔から見てるが、複雑な世界だな……。何をやってるか全然分からん」 「いいんじゃない? 私も、あのお店の餃子の材料や作り方を一から十まで知ってるわけじゃないし」  それでも胸を張って、あの店の餃子が好物だと、奈々美は言い切る。  世界は、重なり合ってできている。その全てを完全に理解することなど、誰にもできはしないのだ。  少しだけ奈々美の言っていることが分かったような気がして、青司は笑う。  帰り道の二人を、白銀の月が照らしていた。
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