4.死

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4.死

――お寺の境内でした。  にゅうっと、ズル。にゅうっと、ズル。妻の口が深海魚の内臓のようにはみ出しては、戻る。夫はもう、全身を震わせながら寂しさで死にそうだった。今から、自分は一人っきりになるのだと、悟っていた。妻の頭部の鶏を引っ張り続ける、とさかが視界の真白に赤い点となって滲んでいた。 ――鶏小屋があって、お寺さん家族や小僧さんたちが可愛がっていました。お参りに来る人たちも。私も。  ズル。にゅう。ズル。にゅう。鶏から脱した口が、言葉を紡ぐ。言葉は言葉のまま賃貸アパートの全容に消失していく。 ――あれは、夜のこと。お爺さんが酔っぱらって暴れると、お婆さんが私を夜の散歩に連れ出してくれた。お寺で、私は、お婆さんに言ったわ。おしっこ。  雑木林の入口のところ、暗いし、奥まで行くのも怖かったし。私はそこで用を足そうとした。キャンディーキャンディー柄の靴のサイズは丁度20センチ。私は小学三年生だった。  暗がりに慣れていく目で、私はみたの。キラリと光った日本刀。  電話がまた鳴る。今度は夫が寝室を立つ。死んだ。今中が死んだ。夫は寝室に戻ってきて、ブツブツとそう、呟いた。兎頭はいつの間にか、元の人間に戻っている。夫は自分で勿論それに気づいている。妻もまた、気づいている。  にゅう、ズル、が、また繰り返される。妻の言葉は、夫の体の震えを伝って、空まで逃げた。 ――私と同い年くらいの男の子だった。あなたと出会ったのは高校だけれど、あなたは話してくれたわね。あなたもあのお寺の鶏を知っていた。そして、義父さんの趣味は、日本刀のコレクション。  暗くて顔まで良くはみえなかったけど、木に縛りつけられていたのは、鶏。可愛そうに、首を絞められて、コケコとも鳴けずに。血の飛沫が、暗がりに光って私、泣いて泣いて、逃げた。お婆ちゃんは、爺さんがごめんなって私に言ったわ。そうじゃ、なかったのよ。  妻が話し終えると、夫が布団にへたり込む。心臓を抑えて、もがき始めた。  妻のはみ出ていない口が、コケコケ、コッコと鳴く。  夫は苦しみに喘ぎながら、床の間の刀がさせた。僕じゃない。あの、刀が。僕を、操って。と、うわごとのように繰り返した。 ――おトイレに行くのが、恐ろしいわねぇ。  妻は真白の羽の奥彼方に、もがき苦しむ夫をみていた。肉垂がピラピラと赤く揺れていた。
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