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1.朝の白雪
朝、目覚ましのラジオが鳴る。ズルズルとパーソナリティーの話声を引きずるように寝室を出て行くのは妻よりも夫の俊之が先であった。普段の朝であれば。
――朝の六時半だ、いつもと同じに、ラジオから気象予報が聞こえる。今日も暖冬。しかし低気圧が東から、明日は全国的に傘が必要。聞こえてくる気象予報士の声が、くぐもっている。そして、なんてことだ、目が、いかれてしまったのか。
夫は戦慄した。寝室の景色がみえない。自分の目がどうかなってしまったのか、視界が一面に真っ白な雪原なのだ。いや、雪の原にしては、なんだか身体温が温い。
――咲子、咲子さん、さっちゃん!!
慄いて動悸がする声を弾ませて、夫は妻の名にすがりついた。三種類の呼び名を時系列順序立てて若返らせながら、カエルがおたまじゃくしに戻るように四足を切り捨てて。
温い雪の原をかきわける、手は、空を切った。
――なんだ、空気だ。待て、なら、手探りで。
夫は少しずつ安堵する。自分が確かに寝室にいることが理解できたからだ。布団。膝立ちして、電気の紐。枕元に和ダンスとその上にラジオ。夫はタンスに背を預けて、反応のない妻をまた、呼んだ。
――鈴本さん!!
一番原始の呼び名だ。卵が葉の裏でソヨソヨと風に揺れた。
――はい。なんです、私はもう時任です。あなた、どうしたってんです。あら、なんてことかしら。真っ白。
夫の戦慄がようやく解けた。夫婦というのはこうしてみえない絆に括られて、異形な朝の戦慄すらも夫婦茶碗のごとし。やれやれ妻も眼前雪の原かと、夫はタンスの角張を背中に何度も押し付けた。
――俊之さん!! 俊ちゃん!! 俊くん!!
妻もまた、三べんの宙返りでカエルをおたまじゃくしに帰して、夫の名にすがりついた。
夫はそこで、タンスに別れを告げる。温い雪原を妻の声目指して突き進んだ。開けていく前の道に、全身の筋肉が目覚め、血潮が血管を駆け巡った。夫の目に、真白の他がみえ始める。
――目を凝らせば、向こうにうっすらと、みえるな。目がいかれてしまったわけではないぞ。遮られているのだ。とすれば、ひとまず安心だ。
夫は真白の奥に、妻の姿をみつける。薄いピンクの寝間着姿。チンと布団に丸くある。置物にしておけば幾らかの値になりそうな愛らしい姿。顔はしかし起き抜けで少々むくんで……。
――鶏だ。
夫が戦慄の白の原を抜けて出会った妻の顔は、真っ白な鶏であった。
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