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2.兎と鶏、後ろ足と胃石
ラジオは六時四十五分を伝えて、パーソナリティーは株価を読み上げている。
――咲子。君は今朝は鶏じゃないか。
夫は今一度起立してラジオを消すべきか躊躇いながら、自分の布団にへたりこんでいた。視界の奥に鶏人間がいる。
――そういう俊之さんは、あなたは今朝は兎ですよ。
そう、妻に指摘されて、ようよう夫は自分の雪原を掌に握するのだった。掌がこそばゆい、フワフワの新雪に似た毛が、やさしくこともなげに掌をいたわった。
――ふむ。耳もある。どうやら体の方は人間だが。尾もないし。
――面白くない朝ですことね。
――まさしくね。
兎の夫と鶏の妻、共に視界を白い毛と羽に覆われながら、それでもいつもの調子で、互いに言葉をやり取りしてゆく。受け取って、投げて返して、育てていくように。葉の裏の卵から足が生えて、池に飛び込んでいくように。
――こいつは、生きているな。
――ええ、お目々が真っ赤です。
――君の目は、じっとしているな。
――はいはい、眼球運動ができないんですよ、だからこう、首をカクカクさせるんです。みたくって、するんです。
――目が真っ赤、か。そうだ、泣き腫らしたんだ。亀に負けたことが悔しくて。泣き明かしたんだ。
――記憶にまで及ぶのですか? この変異は。
――どうだろう。これはいつぞやみた昔話のアニメだと思うが。
――どうして、こうなったのでしょうね。
――どうしてだろう。
兎の夫も鶏の妻も、布団の上に鎮座して、首を捻っている。コケピョンと、二つに括ったオノマトペが夫婦フーフーと、俯瞰する誰かにおどけられている。
――僕は戌年だし。
――私亥年ですし。
――もしや、知識かな。君はどの動物よりも鶏に詳しいとか。どうだい。
――肉垂。というんですよ、嘴の下の。ビロンと垂れ下がっているものは。
――初耳だ。
――消化ができないんでね、石をついばんで、すり潰すんです。その石の塊は胃石、と呼ばれて珍重されます。
――詳しいね。
――ええ。でも私、兎のことも多少詳しいわ。動物のことは好きで、子供の頃よく、本を読みましたもの。兎の後ろ足は不思議な力が宿るって、アメリカでは御守りになるんですよ。バイク乗りに人気だそうです。ボーーントゥビーー。
妻は両手を蟷螂の鎌気に曲げて、バイク乗りの映画を唄う。夫はその様子をぐいっと近づいてみる。真白の奥から妻の寝間着姿が躍動して、下半身をよじった。
――あれ、ちょっと、なんです。
――いやその、はしたない話だが、もよおした。
――ははぁ、やっぱり、この変異は肉体にも影響を及ぼしてますよ。兎の性欲は凄まじいんですってよ。
――そ、そうなの?
――だって、プレイボーイのキャラクターは兎でしょうに。
――そんな意味深なことだったなんて、知らなかったな。
――でも、ダメですよ、今ことしたら、なにが産まれてくるやらしれませんもの。あ、産むといえば。どうしましょう。おトイレに立つのが恐ろしい。
妻は恥じらいで俯いた。眼前は真白く、尿意も遠く彼方に光は届かず、安堵した。
――そこで、してみなさい。
――コケー。
妻の呆れが鳴き声になる。その瞬間。夫の股間はさらにモゾモゾしたのだが、その起因は性欲、などではなく、もっと命の根幹に深く関わることであった。しかし、夫はまだそのことに気づけずにいた。
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