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目が覚めると、白い天井が見えた。
寝返りを打つと白い壁が見えた。
体を起こすと白い床が見えた。
「どうかね。気分の方は?」
ぼおとしていると、医者の声が聞こえた。
声の方を向いたが、白い壁が見えるだけだった。医者は一日にして、壁になってしまったのかもしれない。それとも、私が医者だと思って話しかけていた相手が白い壁だった、ということもありうる。そんな夢野久作じみた話でも何らおかしくはない。今の私ならありうることだ。
だが、それにしても、蛍光灯もなく、診察台もなく、私の身体もない、なんて…………そんなおかしなことがあってはならない!
私は自分の手を動かし、鼻の先まで持ってきたが、視界のどこにも変化が訪れない。腕とともにやってくるはずのあの変化がない。世界を満たしていた、動的と呼ばれるものの全てがない。私の視野には動きがない。ちなみに指で鼻をつまんでみた。鼻はいつもの感覚で潰れてくれた。見えはしないが、手はあるようだった。しかし見えないなら……ないも同然じゃないか!
「これはどうなってしまったんでしょう」
「驚くのも無理はないよ。君の視界は進化を遂げ、死が見えるようになったのだ」
「どういうことでしょう」
「君がもし、死の蓋然性の高い場所や出来事に出会うとき、君の視界は赤く色づく。それは警告灯だ。赤い知らせが君に死を知らせる。君自身の死を、だよ」
「ちんぷんかんぷんです。つまり、赤くなったら危険が高まってる証拠だ、ということですか?」
「然り。よぉく理解できてるじゃないか。君は赤色を避ければよい。赤色を近づけないように生きるのだ。そうすれば死は君を取り巻くこともない」
私は白い声と向き合いながら、最も気になっていることを尋ねた。
「先ほど進化と仰っていましたが、この視界はいつになれば戻るのでしょうか」
「君! なんてことを言うんだ! この治療に満足できないというのか!」
なぜか声はひときわ大きくなり、そのとき目の前の中央が、まんまるに赤らんだ。仄めくという表現が近かった。確かに医者の言う通り、この視界は注意ランプの役割を担っているらしい。
「全然盲目になるとは思っていなかったのです。戻し方を教えてください」
「君ねぇ……どれだけ苦労して治療したか、わかっているのかね? もういい。帰り給え。ついでに余に感謝して帰り給え。君は死をはっきりと見れるのだから、もう漠然とした恐怖を感じることはない。この治療のおかげなのだよ。頭をペコペコして帰りなさい」
医者は自慢交じりに言いたいことだけ言ってしまうと、透明な腕力で背中を押し出し、玄関口まで早足に送り返した。私はひとり、文句も言えず、アスファルトの上に立つことになった。
放り出された私のもとに、車が近づいてくるようだ。そのとき視界の端に赤い光が差し、騒音とともに、光は目の前を駆け抜けていった。なるほど、車は危ない。
…………しかし、私の恐怖している死とは、こんな物理的な恐怖などではない! 現実的な恐怖に怯えているわけではないのだ。
「なんてことをしてくれたんだ!」
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