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目下のところ、私が困ったのは、家へ帰ることができない、ということだった。
どこを見ても、世界はまっさらだった。
何も書き込まれていないスケッチブック。たまに赤く色づけされては、消えるだけの、現象に乏しい世界。そんな世界にほっぽり出されて、どうやって歩行すればいいというのだ! 歩き方さえわからない。ついさっきまで当たり前にわかっていたつもりの「歩く」という行為さえ、様子が違ってわからなくなってしまった。目が見える人間の「歩く」と、目が見えない人間の「歩く」とでは、全然意味が異なっているように思われた。私と日常的な行為との間の、確固とした靭帯に、突然深い亀裂が入り、分断のあと、私は無記入な地帯へと疎外されたのだ。
赤ちゃんよりもひどい! なぜなら赤ちゃんはまともに歩けないが、自分はまともに歩けるはずだから。「はず」なのだ。その「はず」が、こんなにも遠のいてしまった!
私は一歩も動けなくなった。今から回れ右をして、医院に突入し、抗議することもできる。弁護士と相談し、法に訴えることも視野のうちだ。だが今の私にはそんな体力はなかった。若者は不当なことを不当に思いながらも、実際的な行動を起こすことがない、とよく言われる。自分もそういう一人なのかもしれない。
私はともかくも歩行を始めることにした。格子状になっている側溝の蓋を踏んで、その感触を道しるべにしつつ、大きな道路へ出た。
そこでは赤が泳ぎ回っている。色の濃淡が空間の奥行きを表現し、見えないのにもかかわらず、車道の所在がそれとなく知られる。私はその色の動きと並行に歩き出した。とにかく家の方向を見失ってはいけない。幸いにも、地理の知識と方角の感覚は人並みに備わっている。危ないとは思いつつも、歩道の柵を掴みながら歩く。
「あの……。すみません」
背後から声がした。
振り向くと、真っ赤な人間が――――!
ちゃんと人の姿が見える!
彼女は全身が真っ赤だったが、ちゃんと人間の輪郭を示している。しかし、赤過ぎて、身体の線の外側へぼんやりと色が漏れ出しているのだった。まるでオーラのように。
「人間だ!」
「えぇ、そうですけど」
「しかも真っ赤だ!」
「え? 何が?」
私は今ようやく事態の意味に気がつき、思わず後ろへ飛び跳ねた。
そう、赤いということは危険ということのしるしなのだ。それに気づくと、彼女がとてつもなく不気味な存在に見えた。幽霊なんかの比ではない。もし今、彼女が赤い歯でも見せて笑ったら、私の心臓はキュッと飛び上がって、喉に挟まるかもしれない。そうなれば嚥下して落とさないと死んでしまうのだが、ほとんど今の私はその状態を寸前に控えていた。驚きと怖れとが手を組んで、心臓をほしいままにバウンドさせていたのである。
「すみません。道をお尋ねしたいんですけど」
「『道をお尋ねしたい』だって!? それはこっちも同じだ!」
「へぇ! それは奇遇ですね」
「全く嬉しくない偶然だ! 出会いにも、役に立つ出会いと役に立たない出会いとがあることを今初めて知った。この出会いは出会ったという事実以外何ももたらさない」
「そんなことはないですよ。あなたは目が見えないでしょう」
「なんでそれを」
私は間違いなくこの女が、私を死に至らしめる存在なのだと覚悟した。彼女は殺しに来たか、さもなくば死に出会わせる案内人なのだ。そうでなければこんなに赤いはずはない。
「ずっと後ろから見てたんですけど、変な動きをしているので、そうなんだろうと」
「そう。私は目が見えなくて困ってるんだ」
「でしょう! でしょう! やっぱり! やっぱりそうだった! やっぱりね。……今からどこへ行きたいんですか?」
「安全なところへ」
「ではあたしが、連れていってあげます! 家に帰るのがいいでしょう」
「違うんだ。あなたと一緒に行くところは、たとえ家でも安全ではなくなるらしいんだ」
「どうして? 家は安全じゃないんですか?」
「あなたが安全じゃないんだ」、とは言えなかった。それは贅沢であり、失礼であった。
私はとりあえず家に帰ることができれば、彼女も去ってくれるわけだから、もしかすると危険ではないのかもしれないと考えた。そう考えて案内に従う方が、都合がいいのではないか。医者は別に時間の話はしていなかった。家まで行って、すぐに別れれば、死は何事もなかったかのように遠のいてくれる。彼女とともに、背景へ消えてくれるのではないだろうか。
そうに違いない。
「では案内してくれますか」
「いいですよ」
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