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彼女は愛想のよさそうな表情しか見せなかった。殺害の意図を持っているとは思えない。であれば、おそらくは彼女といると死が早まるくらいの意味合いでしかないのだ。
怖れる心配はない。
車の位置も見えるし、死の位置は前もって与えられるのだから。決闘の場面で、事前に相手の剣先の軌道が見えるなら、それに当たりはしない、というのと同じだ。
私は彼女に住所を教え、彼女はスマートフォンに住所を教えて、道を割り出した。私もスマホの道案内で家まで帰れるのかもしれないが、横断歩道も家も、ましてや自分の足さえ見えないのだから、行き着くのは困難だろう。連れ添いがいるに越したことはない。
赤い彼女はというと、道中おしゃべりだった。
「生まれながらにしては変ですね」
「私の目の話ですか? ええ。ついさっき見えなくなりました」
「そんなことがあるんですか?」
「ええ。医者にやられました」
「そんなことがあるんですか?」
「ええ。そんなことがあるとは知らなかったばっかりに」
「医者が人を盲目にするなんて聞いたことがありません。手術の失敗なんですか?」
「いいえ。これで成功したらしいんです」
「意味がわかりません」
「今はリスク社会とも言いますから、理不尽な目に合っても、想定してなかった方の自己責任になるらしいです」
それからの彼女は、少しおしゃべり過ぎた。質問の形式で私についての情報を聞き出そうとしているように感じた。私は少し訝しんだが、かといって拒む理由もないので、例えば好きな服のブランドは何かだとか、誰かと付き合っているかだとか、そんな踏み込んだ質問にも一々返答した。
「パン派ですか? ごはん派ですか?」
「ごはん派です。でも嫌いになりそうです。ごはんは全く白いので」
「朝ごはんには味噌汁をつけますか?」
「朝ごはんは食べないですね」
「部屋は何畳ですか?」
「部屋? 十畳くらいですよ」
「お薬は飲んでますか?」
「薬? そうですね。抗うつ剤を貰いに医院に行ったんですが、それは私の不用心で叶いませんでした」
「暖房は電気派ですか? 灯油派ですか?」
彼女はずっとこういう調子なので、私はおかしな世界に迷い込んでしまったように感じた。
車の赤が、せわしく交差する場所に来ると、更に世界はおかしくなった。
赤は際限なくぼやけたり、と思えば、円の形へ戻って明瞭になったり、さらには交差点の中央で色濃く交じり合い、またはしきりにちぎれたりして独特の鼓動を視覚化していた。それは恰もがん細胞が身体の中で踊るように、一人の人間の生命を握っている者の、超然とした遊戯の観があった。
めまいを誘う不気味な攪乱。私はその激流に翻弄され、喉の奥に異物を感じだした。そいつを飲み込んだら胃が反発して送り返すであろう、空気の溜まり。つばを飲み込んだらそいつは下がってくれるが、そのときには再び胃が跳ね返してくる。繰り返せば繰り返すほど吐き気の増してくる最悪なシーソーゲーム。あの宙ぶらりんな吐き気。
この気分に追い打ちするように、彼女の執拗な声は私の顔の上に注がれた。バスの中で古臭い録音アナウンスを聞いているような、妙に遠い日にいるような錯覚。私は曖昧に返事しつつも、この怒涛の酔いに耐えきれなかった。
切れかけの電灯のように目の前がチカチカと黒くなる。
私は訴えるために彼女を見たが、彼女は赤い目を閉じずに、私を最後まで凝視していた。
彼女の目は、現象を余すところなく見つめようとする観察者の異様な目に見えた。
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