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白い天井が見える。目覚めだ。またこの部屋だ。まぶたが薄くしか開かない。天井の白しか見えない。電子音が絶え間ない。おれの命を測る音。これが聞こえている間は生きている。指一本動かせないとしても。
もうしばらくすると看護師がやってきてこう言う。
「おはようございます、◯◯さん。今日外は大雪ですよ」
そして体温計を床に落とすのだ。
体が動かないのは知っている。脊髄損傷だ。感覚もない。治療法もない。完全麻痺は治らない。
まぶたを大きく開ける。目やにがたくさんついている。眠っている間に泣いていたんだろうか。取ることも隠すこともできない。
なぜここにいるのか、知っている。道路に飛び出し、車にはねられたんだ。ボンネットの上を転がり、頭からアスファルトに落ちた。そして首を折った。記憶にあるのは車に気づいて路上で立ちすくんだところまで。それ以降は聞かされて知った。はねられたときに足の骨も折れたらしいが、痛みも何も感じない。ないのと変わりない。
必要な治療は行われた。状態は安定している。一生を寝たきりで過ごす。寝返りさえうてない。
静かだ。個室には他に誰もいない。けど、ドアの外に一人、ずっといることは知っている。昼夜を問わず、交代で見張っている。こんな体で、おれは逃げ出せるはずもないのに。税金の無駄遣いは行政だけができる特権だ。
静かだ。外に降る雪が、病院内の音まで吸い取ってしまうようだ。
今日は来客がある。ずっと前から交付されていた逮捕状が、今日やっと日の目をみる。外の見張りのお仲間が駐車場から雪の中を歩いてやってきて、それをおれに見せる。逮捕容疑は殺人。今はもう動かないこの手が最後にしたことは、金槌で人を殴り殺すことだった。
復讐だった。パワハラ、セクハラ、アルハラ。彼女が受けた苦しみが彼女を蝕み、それを会社に告発しても何の改善も見られなかった。やがて恐喝や強制わいせつと呼んで差し支えないほどエスカレートしたハラスメントは彼女を壊した。奴らは、そんな彼女をさらに食い物にした。出社できなくなった彼女のデスクを漁り、横領の濡れ衣を着せた。「やってません!」涙目で、ひきつるような声で訴える彼女を、それでも警察は連れていってしまった。証拠不十分で逮捕までは至らなかったものの、警察に連れていかれたという事実は会社にも近所にも知れ渡った。おれはずっと計画を立てていた。どうやって奴ら二人を殺すかと。催涙ガスと金槌を用意し、時間があれば奴らの会社から仕事帰りを尾行した。
チャンスは思いのほか早くやってきた。会社の飲み会が催された。こんな状況でよくできるなと憤ったが、またとない機会だった。さすがに公の飲み会ではないらしく、男数名だけだった。居酒屋の、奴らの隣の個室にも、奴らの自慢めいた愚痴のような汚らしい言葉は届いた。会話は全部録音し、これから行われる裁判でも弁護側の証拠として採用される。けれどもその場でのおれは怒りで殺意を育て上げるばかりだった。
帰宅途中の奴らが人気のない公園脇を通りかかったとき、催涙ガスで襲った。悔やまれるのは、そこに奴ら以外のもう一人、一緒に飲んでいただけの無関係者がいたことだ。奴らのうち片方の家が近いことは知っていた。チャンスはその時しかなかった。酔っ払っていたものの抵抗してきた彼を、おれは二番目に殺した。都合三人の頭を砕き、大きい通りまで走ってそこを渡ろうと飛び出したときにはもうすぐ右に車がいた。
彼女とはもう一生会えない。実家へ帰ったと聞いている。手紙を受け取ることもなかった。最初は期待していた。二回目だって、期待を捨てきれていなかった。
裁判では争うべき事実はなく、ただ情状酌量だけを弁護側は求めた。おれ自身こんな体になってしまい、命をもって償うつもりでいた。本来の相手ではなかった彼の命を奪ったことには本心から反省の弁を述べた。犯行の残忍性、計画性、三人の人命を奪った事実。それらにより、死刑判決が二度くだされ、最高裁は上告を棄却した。再審請求は行わない。死刑の執行は今から十三年後の十二月最初の金曜日。自分が教誨師に告げる最後の言葉も知っている。
「被害者のためにお祈りください」
車椅子で運ばれ、黒い袋で目隠しをされ、ロープを首に巻かれる。はね板は車椅子ごとおれを床下に落とす。車椅子が床下にぶつかる音が聞こえた次の瞬間、ロープがおれの首の骨を折り、この体は十三年ぶりに垂直になる。もう五回も繰り返した。裁判も、拘置所も、刑の執行も。その度に黒い目隠しの後の、白い病室。
一体いつになったら抜け出せるんだろう。何でこんな取り返しのつかないところからのやり直しなんだ。首から下は動かせず、誰からも見放され、死ぬことも決まっているのに、何で繰り返すんだ。
病室のドアが開く。姿は見えないが、看護師が入ってきたに違いない。
看護師はこう言った。
「おはようございます、◯◯さん。今日外は大雪ですよ」
言い終わると同時に、体温計が床に落ちる音がした。
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