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【2】「新開」2
「お前、これ読んだか?」
背後から坂東さんが声を掛けてきた。
「ざっとですが、まだ全部は」
答えながら振り返ると、坂東さんは廊下の壁や天井にせわしなく視線を走らせながら、猛烈な速度で考えを巡らせていた。手には三神さんの日記を持っている。
「不明な点が多すぎて、要領を得ないというか。坂東さんは、何か分かりましたか?」
「まあ、ちょっとな」
「そうなんですか?」
「オッサンを発見したのはお前か?」
「いえ、うちの本部です」
「あ?」
「天正堂の……え、なんか怒ってます?」
「いや。てことはオッサン、『煙』を炊いたのか」
「そのようですね。電子機器や電話回線などは霊障の影響を受けやすいですし、家の屋根から煙を上げて火事を装えば隣近所も捨て置けない。まあ、古風ですけど最も確実なヘルプだと、僕も思いますよ」
「何色だったって?」
「……黄色、だそうです」
僕の返答に、坂東さんが小さく唸り声を上げた。
狼煙を上げる、という言葉が昔からある。読んで字のごとし、煙を立ち上らせて行う、離れた場所にいる人間同士の伝達法である。それが事の起こりを知らせる合図であったことから用いられて来た言葉だが、三神さんの上げた煙には色がついていた。本来ただの白煙であれば、急な意味はない。しかしそこに予め取り決めのあった色が混ざることで、受け手側がメッセージを読み取ることが出来る、という仕組みだった。三神さんの上げた黄色の煙は、
「当方、霊障により瀕死」
である。
「発見した奴はどこにいるんだ? 知ってるやつか?」
「今まだ警察で事情聴取を受けています。知ってるもなにも……あ、戻られました」
僕の視線を追って振り返った坂東さんの背後に、温和な顔だちの男性が立っていた。坂東さんはトレードマークであるフレームの細い眼鏡をくいっと指で持ちあげると、
「これはこれは」
と意味深な口調でそう言った。「小原さんでしたか」
独り言のようにつぶやく坂東さんに目で挨拶し、その男性は大きく溜息を付いた。
「お疲れさまでした、小原さん」
「うん」
短く返事を寄越すと、小原さんは壁際の待合ベンチを見つけて腰を降ろした。
小原桔梗、五十九歳。天正堂に籍を置くベテランの拝み屋である。薄くなった頭髪を綺麗に櫛で梳かし、ギンガムチェックのベストを着た外見だけで判断するなら、たっぷりとした腹回りと相まって、優しそうな近所のおじさんにしか見えない。ある人物からは、『日曜日の教頭先生』だと揶揄されていた。だがこの男性こそ、あの坂東さんですら一目置く、天正堂階位・第四を受け継いだ実力派の拝み屋である。階位・第三に位置しながら本部を飛び出した三神さんの穴を埋め、実質現場のまとめ役として長年団体を牽引してこられた影の功労者だ。その小原さんが、大分と参っている。
「ただ事じゃあ、なさそうですね」
僕の気持ちを察したように、坂東さんはそう言いながら小原さんの前に立った。
「警察の捜査は、どこまで?」
隣に腰かけて僕が問うと、小原さんは右手で口元を撫でるようにして覆い、
「謎だらけです」
と答えた。確かにそうだろうな、と僕と坂東さんは顔を見合わせた。
小原さんは言う。
「警察とてまだ多くを知っているわけではありません。本部の人間で言えば、三神さんの家から一番近くに住んでいたのが私なのは間違いないし、天正堂うんぬんを抜きにしたって長い友人だから、私が第一発見者であることに向こうさんも疑いはない。ただね、血が……」
大量の血が、三神さんの自宅から見つかったそうなのだ。それは小原さんの通報を受けて駆け付けた救急隊員もそう証言しているし、間違いはない。ただし、全てが三神さんの血液ではない、と警察が言うのである。
「もうそんなことまで調べがついてるんですか?」
僕が怪訝な顔で尋ねると、小原さんは口元を手で覆ったまま、言った。
「大量の血って、一体どのくらいの量を言うと思います?」
その言い方に、僕の全身がぞわりと総毛だった。
「いや、それは」
「警察の受け売りですが、人間は血液の全体量に対して20%を短時間で失うとショック状態になるらしいです。だけど発見時、かなりの吐血量ではありましたが三神さんにはまだ意識があったし、会話は出来ないながらも、意思疎通は可能だったんです。仮に、ショックに陥るギリギリまでなんらかの出血があったとしても、三神さんの体重じゃあ、せいぜい800ml出ればアウトだろうと言われました」
「800」
ピンとこないが、数字だけ見れば多そうだなと思った。だが、実際はそうじゃない。
「800と言えば、一般的な水筒と同じ容量です。スーパーなんかで売ってる紙パックの牛乳一本分よりまだ少ないくらいです。ですが、新開くん。私も確かに見ましたよ。三神さんのいた部屋は、まるでホースで水を撒いたように、床、壁、天井、いたるところに血液が飛び散り、まだ滴っていた。言われてみれば、あの量全部が三神さんの血だなんて到底考えられません」
そう言われて惨状を想像し、身を固くする僕の前で、坂東さんがしゃがみ込んだ。
「小原さん。あんたが三神のオッサンの家に到着した時、誰かがいた形跡は?」
小原さんは苦笑し、
「やっぱり坂東くんも警察官だね、さっき全く同じことを聞かれましたよ。しつこく、何度もね」
「そりゃそうですよ、もともと『ただの刑事』になりたくてこの世界に入ったんだから」
「そりゃぁ、壱岐くんが聞いたらさぞかし悲しむだろうね」
坂東さんの目がギラリと光った。
「……殺すぞお前」
「何です?」
――― やめましょう!
僕が割って入らねば、無用な諍いに神経と大切な時間を削られるはめになる所だった。だが、肩入れするわけではないが、この場は小原さんに非があったように思う。敢えてそこの明言は避けたが、
「こらえましょう、坂東さん。僕が、話をしますから」
坂東さんの腕を引いてその場を離れた事で、僕なりの見解と立位置を伝えられたように思う。その証拠に、
「終わったら呼べ」
とだけ言い残し、坂東さんは廊下の奥へと立ち去ってくれた。目上とは言え、彼の人生における大切な部分を闇雲に突かれて尚、振り上げた拳をそのまま下げてくれたのだ。僕はほっとすると同時に、これまで彼と過ごして来た時間が自然と脳裏に蘇り、胸の詰まる思いがした。
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