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【3】「新開」3
「どうしたんです?」
歩み寄り、僕がそう問いかける言葉の終わりを待たずして、
「すまないね」
と小原さんは詫びた。そして僕を見上げた顔にはもうどこにも、怒りや苛立ちの欠片さえ残っていなかった。小原さんは坂東さんが歩き去った廊下を見つめると、
「折を見て、坂東くんにも謝っておいてください」
と言った。
「らしくないですね、小原さんが、あんな」
僕の言葉に、小原さんは苦笑を浮かべて視線を落とした。先程、小原さんが坂東さんに向かって口にした『壱岐』という名前には、僕自身も強烈な思い入れがあった。
壱岐琢朗。かつては坂東さんの上司として、『広域超事象諜報課』を率いていた名うての霊能力捜査員だった。十年前に起きた『黒井七永事件』を調査中、敵の術中に嵌り、自ら命を絶った。今思い返しても圧倒的な強さを誇る厳格な捜査員であり、気高い誇りと責任感の強さが彼を死に追いやったのだと、僕にはそう思えてならない。
坂東さんを含め現場の捜査員からの人望も厚く、誰もが彼の死を悼んだ。もし、壱岐さんが今も生きていれば、小原さんとは同年代のはずだ。立場は違えど、心霊現象に悩まされる人々を救うため、日夜戦って来た同志と呼んでも間違いではない。だからこそ、無関係な会話の流れでおいそれと口にすべき名前ではないというのが、僕なりの考えだった。
「彼は、やはり壱岐くんに似ているんですよ」
と、小原さんは言った。
「そうですね、僕もそう思います」
「優しいが、激しい。そして、とても厳しい……自分に」
「ええ」
「実力のある霊能者である前に、刑事なんだな、彼は。だからこそ、まずは新開くんだけに伝えておきたいと思ったんです。後の事は、君が判断して彼に伝えるなり、胸に秘めるなり決断してください」
「え」
小原さんは故意に坂東さんを遠ざけた、ということらしかった。だが、そんな冷や汗もののトリッキーな行動なんかより、そこまでして僕だけに伝えたいと語った話の方が、僕の胸にはズシリと重かった。
「心して聞いて欲しい」
と、小原さんは言った。「三神さんはおそらく、呪われています」
「……はい?」
実を言えば、三神さんの症状について「呪い」という単語が発せられたのは、小原さんが口にしたこの時が最初だった。僕も坂東さんも、病院に運び込まれた時の三神さんの様子を直接見てはいない。集中治療室に入ってからというもの、念話による意思の疎通をはかろうと試みるも失敗し続けている。
詳しくは後述するが、僕が坂東さんに電話をかけた時、奇遇にも彼は「呪い」という言葉を口走った。
――― 『なんだよ新開。奇天烈軍団のナンバーツーがどうかしたのか? まさかお前ぇ、三神のオッサンが呪われちまったーなんて言うんじゃないだろうなぁ?』
だがもちろん、その時点で坂東さんが三神さんの置かれた状況を把握していているわけがない、と僕は思い込んでいた。のちに思い込みと分かるこの認識違いも関係して、小原さんの話をすんなりと受け入れることができなかったのだ。
大量の吐血、全身に無数の切り傷があったという事実も病院に到着してから知った。それにしたって強い霊障が及ぼす肉体への影響だろうと想像できたし、三神さん直筆の日記を読んだ後もその印象が大きく変化することはなかった。確かに、頻繁に登場する「U」という女性が何らかの心霊現象に悩まされていたであろうことは、日記の記述からも読み取れる。だからそれを言うのであれば、呪いを受けているのは三神さんじゃなく「U」でなくてはおかしいのだ。なぜ、呪い師である三神さんが呪いを受けるのだ?
――― いや、それも違う。
「三神さんが呪いなんか受けるわけないじゃないですが。彼は……プロですよ?」
天正堂階位・第三と言いかけて、やめた。
「それはもちろん君に言われなくても分かっています」
小原さんは冷静な口調で言い、僕の目をじっと見た。「だけど状況から鑑みるに、その可能性が一番高い、という話です。警察の話では、部屋中に飛び散る血の量から見て、明らかに三神さん以外の人間がこの部屋にいた、という線で捜査が開始されるそうです。それはつまり、三神さんを攻撃した人間か、あるいは、三神さんが攻撃した人間、ということを意味しています」
「三神さんが……攻撃?」
「可能性の話です。警察の立場からしたら当然そうなります。だから、坂東くんの耳に余計な情報を入れたくなかったんです。何故なら、鑑識がざっと見た限り、成人した人間が四、五人はいたはずだ、それぐらいいないとこの血の量はありえない、そう証言したからなんです」
「四、五人って。だけどなぜそれが、呪いという話になるんです?」
小原さんは深く溜息を付き、逡巡した後、意を決したようにこう告げた。
「以前……と言っても大分と前になりますが。これと酷似した状況を見た事があります」
「いつですか!?」
「君が三神さんと知り合うずっと前です。ですが、聞いたことくらいはあるでしょう。一度しか言いません、忘れないで下さい。おそらく今回の事件には」
――― くぼうが関わっています。
「……ク?」
「九つの坊と書いて読ませるあれのことです。かつてチョウジの人間を二人殺めた。そのうちの一人は君も知っている通り、坂東くんです」
無意識に、坂東さんが歩き去った廊下を振り返った。
もちろん改めて説明されるまでもなく、『九坊』については知っている。この世界に入る時、色んな人たちから決して関わってはいけない霊的事象の代表格として教え込まれた。史上まれに見る凶悪な『呪い』、決して単独で相手をしてはならない、自然災害級の霊障など、人によって表現の仕方はさまざまだった。しかし僕程度の人間にはどうしたって処理しきれない特大の事象である、という点では皆の意見は一致していた。いや、そもそもが、三神さんや幻子ですら逃げるが勝ちと言って憚らない事象なのだ、「僕が」という狭小な問題ではないのかもしれない。
そして何よりも、坂東さん本人の口から何度も聞かされてきた。坂東さんは一度その命を奪われ、天正堂代表の二神七権によって死の縁から助け出された過去を持つ人間だからだ。ただし、僕が聞いてきたのは九坊そのものについてではない。尊敬する先輩職員の命を助けられなかった、生涯消えることのない彼の後悔と苦悩、である。
「君も知っていると思いますが」
と前置きして、小原さんは言う。「坂東くんだけは常に、前のめりに九坊へ向かって突き進もうとしていた。その点に関してだけは、チョウジのみならず天正堂との情報共有に余念がなかった。更なる犠牲者を出さないためにと言い張れば誰もが拒めない、だが彼の眼を見れば分かる。彼はずっと、敵討ちの機会が訪れるのを待っているんです。しかしこの十年、三神さんのもとで呪い師として修行を積んで来た新開くんなら分かると思いますが……あれは、戦ってる勝てるとか、そういうものではないのですよ」
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