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【50】「六花」10
正直に言えば、噓だと思った。
これは敵の罠だと疑った。
短い期間とはいえ天正堂に属していた私だ。土井零落の名前くらいは知っている。私が十代で門を叩き、階位・第六という女性霊能者の中では団体中トップの位を授かった時、既に階位・第五はこの土井零落だったのだ。年齢的にもあちらが大分と上の筈で、おそらく三神さんや小原さんと同年代ではあるまいかと想像を巡らせていた。というのも、この土井零落という男には誰も会った事がないというのだ。もし三神さんが噓をついていないなら、天正堂階位・第三という現場最高責任者である彼ですら土井の顔を見た事がないそうだ。おそらく、小原さんに聞いても同じ答えが返って来るだろう。
長年、存在しない男だと呼ばれて来た。あるいは二神七権の子か孫で、秘蔵っ子としていずれは階位・第二を継ぐのではないかとも噂されていた。だが幻子を伴って三神さんが本部を出奔した後も、土井零落の階位が繰り上がることはなかった。
不思議な存在だった。天正堂の拝み屋たちが冠する階位の上位七番目までは、誰もが一目置く程の高位霊能者として周囲から敬われて来た。私も三神さんも尊敬されたいなんて微塵にも思わない人間だが、実際小原さんや二神さんを相手にする時などは、やはり心の中で自然と頭を垂れている。そんな上位七番の中にいて、土井零落という男は存在自体が謎だった。いるのかいないのか、それすらも分からない。そんな人間が何故天正堂に属していて、どういった呪いを行使するのか、ずっと疑問だったのだ。
今だってそうだ。気配はするものの、土井は自分がどこにいて、どこから話しかけているのか全く所在を掴ませてはくれない。
「本物だっていう証拠は?」
疑いを隠さずにそう聞くと、土井は突き放すような口調で、
「ありません」
と答えた。「私はただあなたに有益な情報を持ってきただけです。井垣からその情報を受け取り、是非とも活用していただけたら、それで……」
「情報って?」
「チョウジ職員、有紀優が所持していたボイスレコーダーです。警察からくすねて来ました」
「な」
では、と言い残し、土井の気配が忽然と消えた。
「おい!待て!」
思わず怒気を吐く私に、
「ここを開けてもかまいませんか?」
と、再び井垣哉子が声をかけてきた。いつの間にか彼女の気配が、病室の扉の前に戻って来ていた。完全に主導権を握られたままの状況に、私は拳を握ってほぞを噛んだ。
「……よろしいですか?」
「……」
私は考え、そして答えた。「ちょっとでいいから、そのままそこで再生してみてくれない。どうにも納得がいかないんだ。めいの為だ、頼むよ」
井垣は少しの間迷う素振りを感じさせた後、「分かりました」と答えた。
「ただ、他の患者さんやスタッフの目もありますから、音量は絞らせてもらいますよ」
「分かった」
今時のレコーダーは一昔前の代物と違って、押し込むような再生ボタンがないらしい。何の前触れもなく、雑音と共に有紀くんの声が聞こえてきた。
『……んでまた。知り合いでもいるのか?』
『ああーいやー、そういうんじゃないんすよ』
有紀くんと話をしてるらしいその声の持ち主は、おそらく斑鳩千尋だろう。
『お前今日非番じゃないの分かってるだろう。あまり勝手な行動をとるなよ』
『間に合ったじゃないっすかー、硬いなー有紀さんはー』
『お前が適当なん……』
突如音声が途切れ、
「どうでしょう」
と井垣が聞いて来た。
離れた位置で聞く彼らの声は、とても小さいながらも、私の耳には本物に聞こえた。めいなら真贋を聞き分けられるだろうが、今はその手が使えない。しかし本物にせよ、仮に偽物にせよ、二人の間で交わされた会話の内容はやはり気になった。
「……分かった、入っていい」
私の返答を受けて扉が開き、濃灰色のスーツをタイトに着こなした若い女が姿を見せた。緊張気味の顔で両手を肩より上に挙げ、敵意がないことを示している。目が大きく、やや厚ぼったい唇が魅力的な子だった。だがやはり思った通り、若い。
「井垣さんだって? 年は?」
「は。年齢ですか、あの、三十です」
想像していた年齢よりは随分と上だった。声だけ聞けば十代にも思える。恐らく現場経験は少ないのだろう、年齢のわりには初々しさが勝っている。後ろ手に扉を閉める彼女に、
「今のは、いつの会話なの?」
と聞いた。
「斑鳩が呪いを受けたとされる日です。つまり、有紀さんと二人して御大のご自宅へ向かった日、ということになります」
「御大……?」
井垣は自分をチョウジと名乗った。年齢は確かに斑鳩よりも上に違いないが、いくら礼儀をわきまえていると言ってもチョウジの人間が天正堂の代表を『御大』と呼んだりなどしない。例え敬意をもって見ていたとしても、普通はない。
「いや、あの、二神七権さんです」
「分かってるよ。……それで?」
「つまり、この録音された会話の内容を聞いてもらえれば、あの日二人が二神さんのご自宅へ向かった理由や、それまでどこにいたのかが分かる、ということらしいです」
「あんたは聞いてないの?」
「私は聞いていません」
「ふーん。あんたと、土井零落の関係は?」
井垣哉子は押し黙り、私から視線をそらした。独断で答えて良いものか逡巡しているのだろう。だが私に言わせれば、彼女の態度それ自体が答えだった。
「……娘、かな?」
井垣は顔を上げて息をのんだ。
分かりやすい子だな。
「どうして土井さんは誰の前にも姿を見せないの?」
「それは言えません」
即答する彼女の目をじっと見据えたまま、私は言った。
「縛り、かな?」
「知っているなら聞かないでください!」
私は黙ったまま井垣を見つめて微笑んだ。なんだか、こちらの気が引けてしまうほど素直な人である。
「申し訳ない」
「……いえ」
縛りとはその名の通り、自分の行動に制限を設けることだ。そうする事で自身の霊力を底上げ出来る反面、制約の種類や強さによっては日常生活に支障を来すこともある。土井零落の場合、およそ三十年近く私たち仲間の前にも姿を見せていない。簡単に思えて、生半可な精神力ではない。誰にも顔を知られることなく生きる理由が、天正堂の拝み屋であり続けることなのだとしたら……。
「感動するねぇ」
「なんですか?」
いや、と私は怒る井垣をなだめ、ボイスレコーダーの続きを促した。
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