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【54】「新開」15
『望景団地、右棟・左棟』。通称・崖団地。
入居者名簿と言っても、僕が見たいのは御曲りさんが美晴台に出入りしていた当時、今から十六年より以前、古くは二十五年程遡った古い年代のものだ。突然の僕の申し出に三島さんは首をひねりながらも、閉ざされた襖を開けて別の部屋へと探しに向かわれた。あるはずだ、という。僕は深々と頭を下げ、とりあえずは先輩と待たせてもらう事にした。
「さっきね」
と先輩が言った。トーンを落とし、別室にいる三島さんには聞こえない程度のひそひそ声だった。「さっき、この下で穂村兄弟と睨みあったじゃない?」
「ええ」
「ちょうどあの辺りだった」
「……何がです?」
「御曲りさんが立っていた場所」
「ああ」
「あの辺りに立って、今思えばなんだけど、村の方角を向いて、にこにこと微笑みながら手を動かしてた」
「ええ……」
先輩がこの話をするのは初めてではないが、やはり現場で聞く話はそこはかとなく生々しい気がした。空想や夢の話じゃない。実際にすぐ側であった本当の出来事なのだ。
「さっき三島さんが仰った、女の子の幽霊? が、その御曲りさんをここへ導いた理由なんだとしたら、ちょっと変だなって思うんだよ」
「何故です?」
「村の方向を向いてたって、言ったでしょ? 確かに村にも出没していたらしいけど、心霊現象が起きた現場はこの、崖団地だよね。なら、団地の方を向いていてもおかしくないんだよ。だけど実際はあの坂の頂上付近に立って……当時はどこを向いてるか分かんなかったの。道行く人の方を向いてると思ってた。だけど今にして思えばそれって、村の方角なんだよ」
「下の道が大分と急カーブですからね。確かに、そうかもしれません」
「でしょ? 両手をこう、なんて言ったいいのか、阿波踊りの手仕草みたいにひらひらと動かしながら、前に六花さんが言ったように辻に立って霊障を祓い続けていたんだとしたらさ、その祓うべきものは……」
「村の方角から来ていた……と?」
「うん。そしたらだよ、例の女の子の幽霊って一体なんなのさって。不思議じゃない?」
「先輩」
「うん?」
「実はその女の子の幽霊ですが」
「うん」
「僕の間違いでなければ幽霊ではありません」
「……どういうこと?」
「あの」
――― あったぞー。
隣室から声が聞こえ、薄いファイルを手にした三島さんが、ガタガタと襖を震わせて誇らしげな顔で戻っていらした。名簿は想像していたよりも大分と薄く、管理が良いのか、年代物とは思えない程綺麗な保存状態だった。
「失礼します」
見せていただいたファイルの表紙には、手書きの油性マジックで、「平成五年」と書かれていた。平成五年と言えば今から十七年前だ。十七年前と言えば、まだ僕はこの右棟の二階に住んでいた、しかし、先輩はとっくに引っ越した後である。表紙をめくって中を見ると、簡素な作りの紙切れが二枚、厚紙と共に紐で閉じられているだけだった。二棟合わせても四十世帯程しかない上に、空室もあっただろうから、右棟・左棟で二枚あれば十分管理出来たのだ。
「平成五年より古いものもあるが、おそらくそう顔触れは変わらんと思うよ? もっと持ってこようか?」
三島さんの提案に僕は礼を述べ、
「とりあえずは、中を拝見してから」
と言って名簿に視線を落とした。
僕が住んでいた十六年前より以前の入居者名簿だ。村から離れた孤島のような立地であり、当時の住民同士の仲は決して悪くなかった。顔は朧気にしか思い出せないが、名前だけなら記憶しいている住人もチラホラ見受けられた。あるいは僕の思い違いでなければ、当時幽霊騒動を引き起こした『女の子』の名前が分かるかもしれないと思い、名簿を探してもらったのだが、ピンとくる住民の名前はなかった。そもそも各部屋番号に割り振られた名前はどれも苗字のみであり、下の名前は書いていない。仮に書いてあってもそれは当然世帯主の名前なわけで、当時子どもだった女の子の名前など分かるはずもない。さらに言えば、団地付近で目撃されていたからといって、団地に住んでいるとも限らないのだ……。
突然お邪魔した上に、ご老体にただ無駄骨を折らせただけかと、内心肩を落とし掛けた、その時だった。
「どれどれ」
と先輩が覗き込んだ。「私が住んでたのは左棟の四階なんだよねえ」
そう言って先輩は一枚目の紙をめくり、かつて自分たちが住んでいた部屋番号を指で探した。
「四〇四、四〇四……、ん、なんて読むんだろ、これ」
「どれです?」
「これ」
……由宇、とあった。
「ゆう……」
口に出して言った瞬間、僕と先輩の背中を地獄から這い出た闇の手が撫で上げた。
「これって」
先輩の声は震え、唇と両の瞳がふるふると戦慄いた。彼女を見つめる僕もまた同じだった。三島さんはそんな僕ら二人を見据えたまま、怪訝そうな表情を浮かべて「どないされた?」と聞いた。だが答えようがなかった。僕らにも分からないのだ。分からないから恐いのであり、だからこそ、この恐怖を信じる事が出来た。
「……『U』、か?」
「まさか、だって。三神さんは、イニシャルを書いたわけじゃなかったってこと? 本当に、ユウって名前だったんだね!?」
「いや、でも」
これが偶然の一致なのか、功を焦る僕らの思い込みにすぎないのか、この時にはまだなんの確証も持てなかった。だが、三島さんが放ったひと言が事態を急転させた。それはまるで失われたパズルのピースが思わぬ場所から出現したような、天啓にも似た言葉だった。
「シノブちゃんか?」
「シ……?」
三島さんは僕たちの視線を受けて、どこか納得のいった顔でこう続けた。
「さっき、新開くんの事はよく覚えてると言いませんでしたか? それは、君たちと由宇さんとこの家族が、ほとんど同時期に転居したからなんですよ。一日、ニ日の違いしかなかったんだ。なんだかそれが、意味ありげに感じてねえ」
僕はなんの話をされているのか分からず、視線を左右に動かして記憶を辿った。
「覚えてないんかい?」
正直、全く覚えていない。棟が違うからかもしれないが、そもそも『由宇』という苗字にも心当たりはないのだ。
「村からこっちへ越して来た一家なんだ。だけど数年暮しただけでまた出て行っちまった。高校生くらいの女の子がいてね、確か名前をシノブと言ってた。由宇、忍」
由宇忍―――
「新開くん、これって」
「ええ」
頭の回転の速い先輩は、少し考えただけでその答えに辿り着いたようだった。
「私が引っ越したあと、同じ部屋に入居してきたのが……『U』」
先輩がこの崖団地に住んでいた小学校一年生当時は、正確に言えば今から二十五年前である。そしてその当時からすでに御曲りさんは美晴台に出入りしていた。崖団地を中心に起きた怪現象、「女の子の幽霊」を調査するために天正堂から派遣されて来たのだ。だが詳細は後述するが、僕の記憶が正しければ、僕の知っている女の子はそもそも幽霊ではなく人間である。怪異として住民らに目撃され始めた村の女の子が、仮に当時十歳前後だった場合、その子は現在、三十五歳前後になっている。そして僕がこの団地を退居した十六年前に高校生くらいの年格好であり、当時十八歳から二十歳までの年齢だったとすれば、その由宇忍は現在、やはり三十四歳から三十六歳前後なのだ……。
そして、三神さんの日記に登場する『U』もまた、三十代後半と記載されている。実際に、崖団地に住んでいた頃の由宇忍の実年齢を知る人間はいない。三島さんは高校生くらいだと仰ったが、女性の年齢が外見とニつ三つズレる事など、さして珍しいことではあるまい。
何一つ確かな証拠はないにせよ、少なくとも僕の中では、幽霊だと騒がれた女の子と由宇忍は同一人物に間違いないと思われた。問題は、由宇忍が渦中の最重要人物である『U』とも同じ人間であるかどうか、である。イニシャルが同じというだけで断定してしまうのは、勇み足だと躊躇う気持ちも当然あった。
「これを相手の尻尾と思い込み、無造作に掴んで良いものかどうか……」
思わずそう本音を吐露した僕に、先輩は強く頷きかけた。
「掴むべきだよこれは。新開くん」
電話が鳴った。
相手は坂東さんだった。
僕は三島さんに断りを入れて、電話に出た。
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