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【56】「新開」17
三島さんとの出会いは、僕たちにとって十分すぎるほどの収穫をもたらしてくれた。情報を整理するためにも、そしてこのまま長居を続けて三島さんに迷惑をかけない為にも、今が切り上げる好機だと思った。僕たちは何度も礼を述べ、見送ろうと立ち上がる三島さんを両手で制して玄関へ向かった。
――― とその時、僅かに開いていた、隣室へと続く襖の隙間が目に入った。
「……」
そこは恐ろしい程の紙束の山と、積み上げられたファイルで足の踏み場もない部屋だった。使われていないと思われた部屋は、ある種の狂気を感じさせる三島さんなりの理由に支配されていたのである。
「……」
思わず足を止めた僕の気配を察し、「新開くん?」と先輩が声をかけてきた。振り返ると、三島さんと目が合った。
「……三島さん」
老人は胡坐をかいたまま僕を見上げ、
「はい」
と返事をした。
「三島さんは……今でも、刑事さんなんですね?」
僕がそう問いかけると、三島さんはニッコリと温もりのある笑みを浮かべて、
「はい」
と仰った。警察組織の一員であるという意味ではない。三島さんは老いて尚、魂の警察官なのだ。僕は完全に向き直って、三島さんの前に片膝を着いた。
「多くは問いません。気になることがあるので、それだけ良いですか?」
「なんなりと」
「今でも、あの時村で起きた事件について調べておいでなのですか?」
「……いかにも」
え、と先輩の声が上擦る。僕がどのタイミングでその答えに辿り着いたのか、隣の部屋を見ていない先輩には理解出来ないのだ。だが、隣室にある紙束とファイルの山は、どう見ても単なる趣味嗜好で出来た産物ではなかった。足の踏み場がないと言っても、それらはいつでも再読しやすいように乱れなく整列し、決して放置されたゴミ山と化しているわけではないのだ。まるで警察が犯人から押収した証拠品を並べるように、意味と理由を持って配置された、それは三島さんの生き様であるように僕の目に映った。
「御曲りさんが、この村に出入りするようになってから、ずっと?」
「いやぁ、もっと前ですよ」
「もっと……前?」
「私はそもそも君たちと違って、あの御仁について調べているわけではないですから。いわば弔い合戦のような……まあ、こればっかりは誰に言っても理解はされませんが、私の個人的な執念でしかないのです」
「執念。……御曲りさんとは直接関係がないということですか?」
「うーん……」
三島さんは返答に困った様子で首をひねり、しばし、と声をかけて立ち上がると、僕の脇をするりと抜けて隣室へ体を滑り込ませた。ヒョイ、という身軽さだった。とても八十一歳の老人には思えなかった。
「良ければどうぞ」
と向こうから声がして、僕はゆっくりと襖を開けた。うわ、と先輩が感嘆の声を上げる。やはり整然としていながらも、そこにある光景からは只ならぬ狂気を感じた。ただの紙束とファイルである。だが漂う気配には確かに執念と怨念が入り混じり、僕たちを圧倒して部屋への侵入を拒むようだった。
三島さんは手近な場所に置かれたファイルを掴み上げると、表紙を僕たちに見せた。
「こういうものを、調べています」
見れば表紙の中央に、見慣れない文字が書かれていた。あるのは手書きの一文字だけだが、はっきりと見えているのに読めなかった。
「なんと書かれているんです?」
「ここには、『神』という漢字一文字が反転して書かれています。私らはこれを、『ウラガミ』と呼んでいます」
「ウラガミ……」
「聞いた事がありますか?」
僕と先輩は顔を見合わせ、正直に首を横に振った。……ありません。
すると三島さんはまたもやニコリと微笑み、そうですか、と言ってファイルを元の場所へ戻した。
「ならば、その機会が訪れることがあれば……」
――― それまでは教えない、ということか。
僕は鼻先にぶら下がったニンジンを取り上げられたようにも感じたが、その一方で、あまりにも荒唐無稽な現実に眩暈を起こしかけてもいた。整理された情報で足場を固める前に、次から次へ新事実が舞い込み両手で抱えきれなくなったような、そんなぐらついた心境だった。恐らく三島さんは僕の心理状態を察し、出した手を引っ込めたのだ。
「あの」
と、先輩が声をかけた。「私からも一つだけいいですか?」
「どうぞ」
「私と彼が訪れる少し前に、柄の悪い男二人がこの団地を訪れているはずです。お会いになられましたか?」
「……ああ、来ましたよ。屋上の掃除をしていたんですが、突然現れてなにやら言うておりましたが、今一つ要領を得んものですから、適当に言って帰しました」
すると先輩は驚きの声を上げて、
「穂村きょ……あの二人になにかされませんでしたか?」
と、尚も案ずる言葉をかけた。三島さんはそんな先輩の顔を不思議そうに見つめて、なにかって? と聞き返した。先輩は僕が光政に足蹴にされた事を引き合いに出そうとするのだが、三島さんのつぶらな目がそれをさせなかった。何かしらの被害があった人間の浮かべる目ではなかったからだ。
「あ、いえいえ、なんでもないです」
僕は顔の前で手を振る先輩の隣に立ち、最後にもう一つ、と三島さんを見据えて言った。
「御曲りさんは、今でもご存命なんでしょうか?」
この問い掛けには、三島さんは眉間に深い縦皺を刻み、
「正直に言えば、それは、分かりません」
と答えた。「私が最後に会った時、彼は大分とお疲れのご様子で、お身体を悪くされているようにお見受けしました。だがらどう、なんていう短絡的な話はしたくありませんが、あれから十五年以上経ちます。今あの方がどこにいて、どうされているのか。生きていてほしいとは思いますがね」
その返答を受けて、やや前のめりだった先輩の意識が若干後方へ引っ込むのが分かった。先輩はかつて、御曲りさんの出てくる夢を『怖い夢』だと表現した。だがここにいる三島さんは、御曲りさんに対して「今でも生きていてほしい」と語ったのだ。夢と現実を混同するわけにはいかないが、その二つは決して切り離して考えられるものでもない。深層心理なのかある種の予感なのかは定かじゃないが、先輩が抱く御曲りさんへの印象が、三島さんの言葉を受けてわずかに変容したのを感じたのだ。
「では、お二人が交わされた会話で、今でも覚えていらっしゃる事はありませんか……?」
僕の問いに、三島さんはしばらく虚空を睨みつけてからゆっくりと、こう仰った。
「なんとかして……」
「なんとかして?」
――― なんとかして、返してやらねばならん。
「と、そのようなことを」
三島さん自身、よくは理解しておられないという口調だった。だが僕はその言葉を聞いた瞬間、全身が硬直する程の恐怖に首の後ろを掴まれた。何も見えない暗闇を突き進むうち、知らず知らずに恐ろしいバケモノの鼻先に顔を寄せてしまったような、そんな怖さだった。
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