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【59】「六花」12
どれくらいの時間、私はその場で立ち尽くしていたのだろう。
私の意識は突然訪れた静寂によって覚醒し、研ぎ澄まされた。
――― 静かすぎる
そう思ったのだ。
病室の壁掛け時計の針は午後四時を指し示しており、まだ外来患者の受付が終了したわけでもない。院内の奥まった場所にある薄暗い病室と言えど、地下ではない。確かに人の往来は少ないが、それでも看護師や患者たちの話声、物音、気配などがそれこそ院内のどこにいても感じ取れるはずだった。
病室の扉を前にして左隣を見ると、ベッドの上でめいが静かな寝息を立てている。右隣を見れば、壁一枚隔てた向こう側の部屋に三神さんの気配を感じとることが出来る。だがそれ以外は、まるでこの病院には私たち三人の他には誰もいないんじゃないかと疑う程の、重苦しい静寂が辺りを支配していた。
――― なあ。
ぎょっとして見やると、いつの間にか扉の前に誰かが立っている。
「……誰」
分厚い擦りガラスの小窓からでは、立っているのが男か女かも分からない。
――― いつまでつづけるつもりか……?
聞こえてくる声は低くぼそぼそと呟くせいで、男女どちらであるか判断出来ない。だが、若い声ではなかった。
「誰だよあんた……何だって?」
――― なぜそうまでするのか……?
「何を言ってるんだよさっきから。誰なんだよあんた!?」
人ではない、なんとなくそう思った。この静寂の意味も、気配を感じないその存在も、全てがそこへ行きつくような気がした。
――― もう、おわりにしよう。
「終われるわけないだろう!お前は誰なんだ!名前を言えッ!」
――― たのむ……かえせ。
「………か」
――― か・え・せ……。
「返せ!? それって」
柳家の仏壇から、めいが聞いたという死者の言葉だ。仏壇から聞こえて来たからには、菊絵さんの旦那さんかご先祖だろうと思っていた。だがもしそうなら遠く離れたこの病院まで追いかけてくる理由が思いつかない。あるいは柳菊絵さん本人ならまだ疑いようもあったのに。
「誰なんだよ……あんたは」
その時だった。
右手を添えていた壁の向こうから、無言ながら、ドスン!と物凄い衝撃が伝わってきた。それは霊気による波動ではなく、三神さんが何かを伝えようと思い切り壁を叩いたように思われた。
「み……?」
「ウーーーンッ」
その音に呼応するかのように、めいが仰向けに横たわったまま胸を高く突き上げ、仰け反った。
「めいッ!」
呪いの効果が発現したと思った。私は両手から左右同時に霊力を放出しながら、「指一本触れさせるもんか」と叫んだ。めいの両目がカッと見開き、白く濁った二つの眼が天井を睨みつける。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
切れ切れに、嗤っているでも苦しんでいるでもない、ただ恐ろしく低い声を吐き出し続けた。
「めいッ!」
悲鳴に近い声を上げる私の側で、妹はさらなる声を発した。
ア
マ
ハ
ラ……
「……なんだって? めい! なんて言ってるんだ!?」
――― ア・マ・ハ・ラ・シュ・ウ・サ・ク……
「天原……秀策」
ドド、と三神さんが壁を叩いた。
今私たちのいる病室の前までやって来ているのは、天原秀策。
通称、御曲りさんだったのだ。
オオオオ、という三神さんの声が聞こえた。
それは雄叫びにも似た、彼の咽び泣く声に違いなかった。
喫茶店で待ち合わせ、新開希璃から夢の話を聞いた。そして久方ぶりに御曲りさんの名前を思い出した。覗き込んだ希璃の目の中に御曲りさんの霊力を感じた時、私はなんとなく、そうなんじゃないかと思っていた。私たちの側までやってきた、正視に堪えない程傷ついた首の無い体を見た時、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
「御曲りさん……あんた」
病室の前までやって来たこの世ならざる者。そして、死者の声を聞くめいは天原秀策の名を口にした。やはり、御曲りさんはすでにこの世を去っているのだ。
「御曲がりさん!なにか伝えたいことがあるんですね!? めいの耳にはちゃんと届いています!なにを伝えたいんですか! 教えて下さい!」
私は扉の向こう側に向かって叫びたてるも、お曲がりさん、いや、めいは同じ言葉を繰り返すのみだった。
カ・エ・セ
カ・エ・セ
カ・エ・セ
カ・エ・セ
「何を返せばいんだ!私たちはあんたから何を奪ったというんです!」
足を一歩前に踏み出し、御曲がりさんに向かって叫んだその瞬間、唐突に私の右手を掴むものがあった。
見れば、右側の壁からこちらの部屋へ通過してきた女の霊体が私の右手を握っていた。髪の長いその女は胸から上だけをこちら側に通し、下半身はまだ隣の部屋にあった。そして私の手を握りながら薄く微笑み、壁の中へ引き摺り込もうと物凄い握力で締め上げて来た。
「……悪いけど今はそういう気分じゃないんだよ。還れッ」
私は霊体の手をより強く握り返し、霊体が形を留めていられなくまで気の波動を流し込んだ。霊体は大口を開けて絶叫し、そのまま黒い灰となって霧散した。
「ただの幽霊じゃないね。これも、木の傀儡か?」
手のひらに残った煤のような黒い沁みを見つめながらそう呟くと、頭上の壁面から突如何本もの腕が突き出された!
「……六花嬢」
三神さんの声だった。
隣の部屋から、三神さんが声を振り絞っている!
「三神さん!」
「……逃げろ、六花嬢……」
その瞬間突き出された腕が引っ込み、音もなく、ゆっくりと、人の顔面が壁一面に浮かび上がって来た。三神さんの側で彼を侵食しようと付け狙っていた悪鬼たちが、全員こちらの部屋へと移動し始めたのだ。私は手のひらの煤を「ふう」と一息で吹き飛ばし、肩を揉んで首を回した。
「三神さん、聞こえる!? もうすぐまぼが来るからね。それまで耐え凌ぐんだ!」
「逃げろ……逃げるんだ……」
「秋月六花を舐めんなよ」
本当は、そんなに強い人間じゃないことは自分が一番よく分かっていた。たまたま、周りの友人たちより早く生まれてきたことや、特異な力を授かったことや、なんとなく私を持ち上げてくれる誰かさんたちの期待に答えようと、無駄に自分の気持ちを高めていただけだった。
学がないせいですぐに口調が荒くなる自分が嫌いだったし、主義主張もないくせに偉そうなことを言う自分が大嫌いだった。だから、そんな私を心から必要としてくれためいだけは、なんとかして幸せにしてやりたかったんだ。その為なら何度でも自分を偽るし、何度でも格好付けてやる。
――― 絶対に負けない。絶対に助ける。絶対に守る。
本当は私にそんな力なんてないけど、私は、私の気持ちだけを信じてる。
だから、めい。
諦めちゃだめなんだからね。
ブチャッ。
気色の悪い音がして、横たわるめいの胸が陥没し、たちまち出現した血の海からうねうねと蠢く人の指が這い出して来た。
「あ……あ……」
私は無数の人面が浮き出た壁に背を向け、めいの身体に覆い被さった。その瞬間、背後から禍々しい霊気の群れが襲い掛かってくるのを背中に感じた。
「三神さん忠告を聞かなくてごめん。だけど私は絶対に、めいだけは守るから! めい、絶対に生きてね」
私は全身から治癒の力を放出し、傷ついためいの身体を復元し続けた。
――― と。
突然だった。
音もなく病室の扉が開いたのだ。
するとその瞬間、室内の全てが停止した。
襲い来る霊体の群れも、私の涙も、空気も、時間も、全てが動きを停めた。
見ると、日に焼けた、色黒の見知らぬ若い男がこちらを向いて立っていた。
「誰」
私の背中に触れるか触れないかの所まで来ていた霊体たちが、風に吹かれたようにかき消されながら隣の部屋へと戻って行くのが分かった。見ればめいの胸は綺麗に修復され、破けた衣服から覗く妹の身体には傷一つなかった。
男が、口を開いた。
「アールイダイビョーイン、ワー、コチラ、デ、スカー?」
「……誰だよ、あんた」
「ワタシワー。ツァイ・ジーミン、イイマス。台湾カラキマシタ。ケッカイシ、デス」
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