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【60】「六花」13
気が付けば『御曲がりさん』、天原秀策の姿は消えてなくなっていた。代わりに、日焼けした健康的な青年が目の前に立っている。名をツァイ・ジーミンといい、蔡志明と書くのを大分と後になって知った。青年は空中に人さし指を素早く走らせて説明してくれたらしいのだが、私はその時ほとんど聞いていなかった。
「発音、し辛いと、思います、クロードと、呼んでください」
「クロード?」
「クロード・ツァイ。イングリッシュネーム」
――― 何者なんだこの男は。
はっとなって、三神さんの病室とこちら側を隔てる壁を見上げる。壁面にびっしりと浮かび上がった人面も今は跡形もなく、沁み一つ残されていなかった。だがそれは、奴らが全て三神さんのもとへ戻ったことを意味している。私が無意識にギリギリと奥歯を噛んだのを見て、自分への敵意だと受け取ったのだろう。クロードと名乗った青年は両手を胸に当てて、
「味方です」
と言った。
「何故ここへ来たの? どうやってここへたどり着いた?」
「僕は、台湾の、結界師です。ここへは、まぼの、依頼でやて来ました」
「まぼの!?」
「まぼが、夢を、見たのです。僕が、台湾を出たのは、二日前です」
「あいつ……」
思わず両手を握り拳に変えて唇を噛んだ。もちろん、怒りなんかじゃない。喜びと、頼もしさと、そしてやはり自分の無力さに対する歯痒さが理由だった。
たどたどしい日本語を操りながら、クロードは言った。
「僕は、助手です」
クロードは三神幻子が海外で仕事をする際に助手としてバックアップする台湾人で、二十九歳だという。契約を交わしたパートナーではく、友人であるとのことだった。今回幻子が帰国する際にも、直前まで台湾で同じ案件に従事していたらしく、日本で良くない事が起きていることはすでに知っていたそうだ。
「何かあれば、すぐに連絡してほしいと言って、見送りました。まさか、こんなに早く、彼女が僕を頼るなんて……」
クロードは真剣な目をしてそう語り、心から幻子の身を案じているようだった。
「まぼは、具体的にはどんな夢を見たと言ってたの?」
「まぼは、自分の見た夢の内容を、他人に話したりはしません。ただ、自分が見た悪い夢の中に、私の姿はなかったから、代わりに駆け付けてほしい、R医大病院、とだけ」
「それだけ? それだけで、はるばる海を越えて?」
「はい」
「よくぞまあそれだけの情報でこの病室にまで辿り着けたね……ありがとう。心から感謝します」
「当然のことです」
クロードは鼻息荒く、誇らしげに自分の胸を叩いた。
ケッカイシ、とクロードは自らを名乗った。日本語で結界師と書くのだろうが、結界だけを専門に取り扱う呪い師には私も出会ったことがない。台湾にはそういった分野の職業が存在するのだろうかと疑問に思ったが、そこを掘り下げる必要性をこの時は感じなかった。ただやはり、気になる点はあった。
「この病室の扉を開ける前に、そこに何かが立っていたのを感じた?」
私の問いにクロードは首を傾げ、
「いや」
と答えた。
「じゃあ、扉を開けた時、何を見た?」
続けて尋ねると、クロードは三神さんのいる病室の方を見やり、聞き取れない発音を口にした後、
「……悪い鬼」
と日本語で呟いた。
であれば、見えているのは間違いないだろう。しかし、
「君は一体、何をしたの?」
という問いには、
「何も」
とクロードは答えたのだ。
おそらくだが、クロードに『結界師』と名乗らせたのは幻子だろうと思われた。確かにクロードには霊感があるし、見る者が見れば(この場合私だが)、こちらで言う呪い師としての資質が備わっていることも分かる。だが私はそれ以前に、クロード自身が天然の結界なのだと思った。それが生まれ持っての強い霊力なのか、あるいはかつてその身に神クラスのエーテル体を宿していた「池脇竜二」という男に似た守護力なのか、そこまでは分からない。だがクロードは眼前に発現している悪鬼(悪霊)に対して何もしなかった、と答えた。それでいて室内にいた無数の霊体を一匹残らず退散させたのだから凄まじい。正しく移動する結界なのだ。単独行動を好むあの幻子が、側に置くはずである。
クロードは救世主だった。R医大病院という城を守り切るには、明らかに人の手が足りていなかったのだ。助っ人だと聞いていた土井零落は情報だけを置いて消えてしまったし、そもそも勘定に入っていなかった井垣哉子も土井と同時に去った。
ただ単に、めいや三神さんを私の後ろへ下がらせ、闇雲に押し寄せる直情的な霊体を相手にすれば良いだけなら、私一人でもなんとかなっただろう。だが奴らは右を見れば左から襲い来る、上を見れば下から這い出てくる、人間心理の搦め手を突いて来るような、ある意味人間臭い厭らしさに満ちていた。そんな奴らが相手では、個人の持てる力がいくら大きかろうとたかが知れている。幻子はそれが良く分かっている。だからこそ、今まで生き残ってこれたのだろう。
「とことん、自分が恥ずかしいよ」
苦笑する私にクロードは目を丸くし、
「何も恥ずかしくないよ。お姉さん、とても綺麗」
と冗談を言ってみせた。
――― 嫌になる、自分が。
容体の落ち着いためいの手を握り、私はなんとか涙を堪えて首を横に振った。
「おだてても何も出ないよ」
「あー……まぼの次に、だけど?」
「っはは、そう来たか」
これでまだ戦える、そう思った。
もうしばらく待てば、幻子が戻って来る。弱々しくはあったが、三神さんにはまだ意識があることも確認出来た。めいの状況は思わしくないが、少なくとも私の治癒力は通用することが分かった。何より、移動する天然の結界クロード・ツァイの参入は大きい。
九坊に関する調査はプロであるバンビや新開に任せて、私はここでひたすら耐え忍べば良い。まだ戦える。戦い抜いてやると、そう思った。
だけど、世界が崩れ去るのは……一瞬だったのだ。
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