【79】「新開」22

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【79】「新開」22

 実を言えば、僕は残間京という女性店員の顔に見覚えがあった。ビスケさんから聞いた人相だけでは何も思い出さなかったが、入店してレジに立つ彼女を見た瞬間、知っている店員さんだと気が付いた。そしてすぐに、ショートボブで目眼をかけた痩せ型の女性が彼女であると理解したのだ。  何故僕が残間さんを覚えていたかと言えば、その理由は一つしかない。彼女の勤務する『BOOKS アーミテージ』を訪れる度、僕は残間さんからの視線を感じていたのだ。気付かないふりをしていたが、ずっと気付いていた。僕は自分が不審な行動でも取っているのかと、なるべく目立たない動きを心がけた。お店に入る時も乱暴に扉を開けず、他の客がレジに立っているのを見計らってそっと中へ入った。  それでも、いつの間にか僕は残間さんから目で追われるようになっていた。だからと言って何をされるわけでもなかったし、話しかけて来るでも嫌な顔をされるのでもなく、店を出てしまえば後引く余韻が残るほどのことでもなかったのだ。ただ、正面から相対した今日、彼女と話をしてみて全てに納得がいった。  残間さんには霊体が取り付いている。と同時に、残間さんの方でも僕の背後に立つ『母』の存在に気が付いていたのだ。どうやら僕が自覚していなかっただけで、母はすでに僕の背後に現れていたらしい。  喫茶店『リッチモンド』へと場所を変え、窓側のボックス席に座った。入店する直前、入り口から少し離れた位置に立ち、携帯電話で誰かと話をしていた坂東さんが、僕と残間さんに気付いてその場を離れたのが見えた。おそらく今も、どこかで僕たちを監視してくれているだろう。  そこへ、 「お二人は知り合いだったんですか?」  と、この店の主人、手島さんが話しかけて来た。数年前からお世話になっている老紳士で、今は喫茶店のマスターとして収まっているが、過去には極道の世界に身をやつした経歴を持つという。僕の知りあいの中では一番顔が広い人物であり、通りの向い側に店を構える書店従業員の名前を知っていても、全く驚くには値しなかった。 「それで、話ってなんですか」  戻って行く手島さんの背中を心細げに見つめて、残間さんが率直に問うた。「私の後ろが、なんとかかんとか」 「ええ」  僕はなるべく冷静にと思いながらも、声が上擦るのを抑えようと必死だった。「あなたの後ろにずっと見えているんです」 「だから何がですか?」 「……悪霊です」 「はあっ」  悲鳴を呑み込んだような声を発し、残間さんはこれでもかと両目を見開いた。僕はこの日、『BOOKS アーミテージ』を訪れ残間さんの姿をレジ内に見止めた瞬間から、彼女の背後に立つ霊体の存在に気が付いていた。というか、はっきりと見えていたのだ。  戸川(旧姓穂村)まみかさんから聞いた通り、残間さんの右斜め後ろ辺りには素っ裸の男性が立っていた。そしてその男の全身至る所には、青あざ赤あざの類が無数に浮かび上がっていたのだ。直視するのが困難な程、惨たらしく、そして禍々しい霊体だった。僕はその霊体を「悪霊」と表現することにいささか抵抗を覚えたが、何も事情を知らない人間に伝えるには、この上ない表現だと思った。 「残間さん、でしたね」 「……はあ、い」 「いくつかおかしな点があるんですよ」 「……なんでしょう」 「僕があなたのお店を訪れる度、残間さんは僕のことを恐々と目で追いかけていた。それが僕ではなく、僕の背後を見ているんだと気づいてから、失礼ながら、僕もあなたを観察していました」  これは、嘘だ。僕は彼女の視線を感じながらも、こちらからは観察などしてこなかった。する理由がないし、僕は女の人をまじまじと見つめることが出来ない。 「だけどおかしいのは、あなたは僕の背後に何かが見えているにも関わらず、ご自身のことには気がついていらっしゃらないように思える。違いますか?」  虚実織り混ぜて話す僕の言葉に、残間さんは黙って頷いた。 「やはり。霊感とひと口に言ってもいろいろありますから。他人に憑りついた霊を見ることは出来ても、自分のこととなると全く知覚出来ない、そういう人だっていると思います。以前は僕も、そうだったので。ただ……」 「……ただ?」 「こんなことをあまり人前で言いたくはないのですが、僕にも多少の霊感はありましてね。今では、自分の背後にいるものがなんなのか、はっきりと認識出来ています」 「はっきりと?」 「髪の長い女性ではないですか? 見た目の特徴は、そうだな。丸顔で、まだ若い」 「……確かに、そうです」 「今も見えている?」 「はい」 「それが、おかしいんですよ」 「……あの」 「はい」 「どうしてさっきからテーブルばかり見てるんですか? 目の前に私がいるんだから、ちゃんと顔を見てお話なさってはいかがですか? 失礼じゃないですか」  怒りのこもった口調でそう責められ、いい年した大人である僕は自分を恥じる気持ちにもなった。 「そうですね。そう思います。ごめんなさい」  だがそれでも僕は顔を伏せたまま、残間さんを見つめ返す事が出来なかった。 「だから」 「ごめんなさい、無理なんです。顔は上げられません」 「どうしてですか!」 「怖すぎるんです」 「……ッ!」  残間さんが勢いよく背後を振り返った。僕の目にははっきりとその霊体が見えてるが、やはり残間さんは視覚的に感知出来ていないようだった。 「ほら、どこにも何もいないじゃないですかっ」 「いますよ。今もあなたの右横、少し斜め後ろに」  僕の言葉に、残間さんはバタバタと両手で右肩辺りを払った。 「何にもいないしっ、見えないしっ」 「そうでしょうね。僕と同じで怖がりのあなたのことだ。もしずっと見えていたらなら、毎日鏡に映る悪霊の姿に、発狂してまっていたでしょうから」 「あなたなんなんですかさっきから!なんのつもりでさっきからそんな出まかせを言うんですか!私になにか恨みでもあるんですか!」 「いえ、そういうわけでは」  ボソボソと喋る僕に、残間さんは甲高い声で喚いた。そこへ手島さんがやってきて、僕たちの仲裁に入ろうとしてくれた。だが事情が事情である。痴話喧嘩や揉め事とは違うのだ。その事をやんわり伝えると、手島さんは唇を真一文字に結んで早々に撤退して行った。 「おかしな点があると、僕は言いました」  僕があくまでも顔を伏せたまま言うと、 「なんて、今、仰いました?」  と残間さんは聞き返してきた。 「……僕の声、聞こえてませんか?」 「いや、聞こえてますけど。でももう少し大きな声で喋ってもらえません? なんか、他のお客さんかどうか知りませんけど、ちょっと周りの声がうるさくって、あなたの声が聞き取り辛いんです」  僕は彼女が何を言っているのか理解できず、こう答えた。 「……他にお客さんなんかいません。僕と、残間さんだけです」  残間さんは目を丸くし、ゆっくりと後ろを振り返った。 「……」  不思議な感覚だった。間違いなく、残間さんは自分自身に憑りついている霊体が見えていない。にもかかわらず、彼女とは一切関係のない、のだ。  潮時か、と僕は判断した。色々な事実関係を隠したまま、これ以上残間さんと話をし続けるのは不可能だと思った。坂東さんがまたメールを寄こさないうちに、話を核心に近づける必要があった。 「ずっと変だと思っていました」  と、静かに切り出した。「僕の背後に何かが見えるとあなたは認めたが、本来僕の背に立つモノは理由もなく現れたりしません。僕の背後にたつモノは、僕の身に危険が迫った時だけ出て来るんです」 「……身の危険? あ、私の?」  と残間さんは驚いて言う。 「あなたじゃない、僕だ」 「……はあ?」 「アーミテージに入る度にあなたは僕の背後にいるモノを見ていた。ということは、僕はアーミテージに入る度に身の危険にさらされていた事になる。それがつまり、残間さんの後ろにいる悪霊だったんだ」  残間さんはずっと迷っていたのだと思う。  店の常連客が突然話しかけてきた。ナンパ目的かと思いきや、「あなたの後ろに霊が見える」と言われたのだ。怒りも、恥ずかしさもあっただろう。そしてそれ以上に驚き、恐怖し、葛藤したに違いない。僕は事前に、残間さんが友人に相談を持ち掛けていたことを知っている。だが彼女の方は、その相談を切っ掛けにして僕が現れた事を知らない。当然、残間さんとしては身に覚えのある話なのだ。だが、突然現れた男の与太話を信じてよいものか、ずっと迷っていたのだと思う。そして、 「私のすぐそばでブツブツと喋ってるのは一体なんなんですか」  ようやくそう答えた残間さんの声は、震えて泣き出す寸前だった。  ――― ブツブツ、聞こえているのか。 「男です」 「どんな男ですか」 「分かりません。顔がないので」 「……え」 「頭部がありません」 「それなのに男だって分かるんですか?」 「先程見てしまいました。ずっと、両手で顔があった辺りを掻きむしるような仕草を繰り返しています」 「い、今も?」 「はい。その手の大きさや肩幅から察するに、おそらく男性かと」  身体的な特徴ならば、もっとはっきりそうと分かる部位が見えている、だが、僕はあえてそこを表現しなかった。 「へー」  残間さんは全身を硬直させながら、そう答えた。「……私は、どうしたら良いんですか? 私に声を掛けて来たということは、なんとかしてもらえるんでしょうかね? ここは私のおごりでいいですから、た、助けてくださいよ」 「一応」  と僕は答える。「一応は僕もそのつもりがあって残間さんに声をかけたわけなんですが……」  答えながら、勇気を振り絞って顔を上げた、その時だった。  
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