【80】「新開」23

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【80】「新開」23

 僕は昔から霊体を視覚的に捉えるのが得意だった。  めいちゃんのように、人間・霊体問わず様々な声を拾う類まれな聴力もなければ、穂村兄弟の弟・光政のように霊体の種類や個体を匂いで判別できるわけでもない。しかし、僕の目には生きてる人間と全く遜色ない解像度で幽体の姿が映し出されるのだ。ひとくちに「見える、感じる」と言っても、僕ほど鮮明な映像を感知出来る人間には一度も出会ったとがない。だからこそ、僕はこの自分の力が嫌になるのだ。そもそも、見たいわけがないのだから。  顔を上げた瞬間、残間京さんの背後に立つその者の、筆舌に尽くしがたい姿が目に飛び込んで来た。一瞬垣間見ただけでは分からなかった無数の裂傷、擦過傷、打撲痕が全身を埋め尽くし、人の身体であるにも掛からわず、肌の色はくすんで灰色に近かった。そしてその者には首から上が無かった。裸であり、男性であることも分かる。だがその者は、身振り手振りで何かを訴えけているようだが、頭部がないため直接的なメッセージを伝えようにも他に方法がなかった。  あるいはめいちゃんなら、魂の声ともいうべき霊力を耳で感じ取れるのかもしれない。しかし僕はただただ恐怖するばかりで、有益な情報は何も感じ取れはしなかった。いつもなら、ここが僕の弱点だとして終わったことだろう。……が、この時は違った。  ――― ザ……ン……ネ……ン……ダ……  確かに、声が聞こえたのである。  口はおろか顔面すらない頭部を欠損した裸の霊体である。赤黒い傷や紫色の内出血に覆われた身体で、見ようによっては滑稽な程両手を振り振り、何かを伝えようともがいている。  声など出せるはずがないし、そもそも僕は霊体から言葉を聞いた経験がない。かつて一度だけ、幻子を通して母からのメッセージを受け取ったことがある。しかしそれはあくまでも幻子の声であり、直接あの世からの声を聞いたわけではないのだ。  この時僕は咄嗟に、ある種の強力な霊波が発せられているのではないか、とそんな風に解釈した。ただし、聞こえてくる言葉の意味は内臓が震えるほど恐ろしかった。  ――― アアア……ザンネン……ダ。ザンネン。ザンネン。……ザンネン……ダヨ。 「残念……だよ」  思わず僕は、ひとりごちるようにその言葉を口に出していた。  目の前に座る残間さんの視線が恐怖に揺れた。「……なにが?」  そう聞き返す残間さんの右斜め後ろを見据えながら、僕は必死に聞き耳を立てた。だが僕は、もっと彼女の訴えにこそ耳を傾けるべきだったのだ。目の前の命を、もっともっと重んじるべきだったのだ。  ――― ザンネン、ダヨ。……ホントウ、ニ、ザンネンダ。 「本当に……残念……」 「だからなにが?」  ――― ……サヨウナラ……。 「残間京、君はひょ」  ――― ……モウ、タスカラナイ……。 「どうしてぇッ!!」  残間さんが絶叫し、僕はギョッとして我に返った。霊体から飛んでくる言葉に集中するあまり、に思い至らなかったのだ。  僕の見ている目の前で、残間さんの首筋に赤い横線が走った。  とても静かで、とても恐ろしい光景だった。  黙って頭を振る僕の目を見据えながら、残間さんは口をパクパクさせた。  残間さんが息を引き取る瞬間、カウンターの中からマスターの手島さんが駆け付けて来た。僕の素性を知る彼だからこそ、最後まで口を挟まずに僕たちを見守ってくれていたのだ。だが静観するにも限度を超えたのだろう。  しかし、僕にも手島さんにも、どうすることも出来なかった。残間さんの首筋に一本の赤い筋が走ったのが見えた次の瞬間、血のカーテンがどっと垂れ、そのまま彼女は額をテーブルに打ち付けて動かなくなった。霊感のない手島さんには何が起きたのか理解出来なかったはずだが、「何かが起きたのだ」ということだけは理解してくれていた。手島さんは悲しい目で、警察を呼びましょう、と小さく呟いた。  この店へ来てから、僕は一度として残間京の身体には触れていない。彼女の突然の死に対し、身の潔白を証明するためには警察の任意同行に黙って従えば良かった。そして事情がなんであれ、当然のごとくそうするべきなのだ。しかし、今僕は立ち止まるわけには行かなかった。喫茶店の裏口から出る際、迷惑をかけてしまったことを詫びた。手島さんはカウンターの中でうな垂れたまま、首を横に振った。 「間に合わなかったな」  店から出て、少し離れた場所に停車されていた坂東さんの車へと戻った。僕は立ち止まり、車の助手席のドアに手をかけた。そのまま数秒押し黙り、やがて言う。 「僕が殺したようなものですね」 「おい」  坂東さんは咎めるような声を上げた。「そういう言い方はナシだろう」 「だけど」 「俺もちゃんと見てた。ありゃあもう、遅いか早いかだけの問題だ。あそこまで霊障の浸食が深いと、よっぽど運に恵まれてない限り間に合わないさ。霊感があるようには見えたが、全く抵抗出来ていなかったんじゃないか、あの女。ビスケには悪いが……お前のせいじゃない」 「だけど、僕が彼女に背後の存在を気付かせなければ、もう少し、時間の猶予はあったのかもしれない」 「猶予ってなんだよ。呪いを誰かに移す時間か? そうやって猶予を与えてる間に、あの女に憑りついた霊障は次々に宿主を渡り歩いていくかもしれない。次の被害者が出る前に、お前が止めたんだ。お前が次の誰かを救ったんだよ。それでいいだろ。……そういう風にでも考えないとやってられんぞ」  坂東さんの口調は少しも優しくないけれど、実際彼が選んで発する言葉はそのどれもが優しかった。だが僕は、微塵にも嬉しいなどとは感じなかった。僕がぐっと奥歯を噛み、車の天井に置いた拳を握り締めると、 「叩くなよ」  と坂東さんは車の心配をした。 「自分が情けない」 「新開」 「坂東さん。目の前にいる人さえ救えないのなら、もう僕はこんな仕事をこれ以上続けていかれない!」 「それでいいのか?」  突き放すような言葉ではないはずなのに、僕はすぐには彼の問いに答えられなかった。 「お前がそれでいいなら、好きな生き方を選べよ。だけどな新開。これだけは言っとくぞ。お前の師匠くらいのもんなんだよ。あれだけの呪いをその身に受け続けて、それでも今なお生きていられる人間なんて、あのオッサンくらいのもんなんだ。一度はあの呪いに叩き殺された俺が言うんだ、間違いない。いいか、それでも三神のオッサンは、お前を信じてるぞ。お前ならなんとかしてくれるって、だから今も踏ん張ってる」 「そうでしょうか」 「お前がそうだと言わないで誰が言うんだよ」 「今坂東さんがそう仰ったんですよ」 「だったら俺を信じろよ」  それはきっと坂東さんなりのジョークだった。見た目は若いが、坂東さんは古い人間なのだ。間違っても自分を信じろなどと言葉に出して言う人ではないし、そういった信念はいつだって行動で示して来た。だから僕は坂東さんの言葉をジョークと受け取りはするものの、本当に信じるに値する数少ない人物であることもまた理解していた。 「……分かりましたよ」 「本当か?」 「……ずるいなぁ」 「なんだ?」 「いいえ」 「俺だって信じてんだ。だから新開、情けないなんてもう言うな。次、行くぞ」 「はい」
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