【84】「幻子」11

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【84】「幻子」11

 傀儡どもを抑え込んでいる結界を解くということが何を意味するのか、ツァイくんは良く理解していた。  柳菊絵の姿を一目見た時からこの老女が味方でないことは分かっていたし、本来なら自衛のための防御策を幾重にも講じたい場面ではあった。だが、出来ないことも分かっていた。今傀儡どもを抑え込んでいる結界を解き、例えば老女からの攻撃を防ぐ手立てに霊力を割けば、たちまちボイラー室は傀儡どもで溢れかえるだろう。それだけでは済まない。奴らを抑え込んでいた自分に、軽く十体は越える霊障の塊が牙を剥くことになるのは目に見えていた。霊障や呪術に干渉するということは、縁を契るということである。地縛霊のようにただ彷徨っているだけの霊体とはわけが違うのだ。  だが、 「死んでたまるか」  ツァイくんとてただの一般人ではない。  台湾に蔡道・蔡家ありと言われた仙道大家の跡継ぎである。攻撃手段こそ持たないものの、こと結界の強固さに限って言えば、おそらく世界でも三本の指に入る使い手なのだ。 「ならば」  不意に老女が言った。両目はしっかりとツァイくんを見つめたままで、両手を体の前で合わせて姿勢よく立っている。 「少々荒っぽい真似も覚悟するんだね。返してもらうよ」  と老女は続け、首をゆっくりと左側へと倒して行った。  ただそれだけのことなのに、ツァイくんは死を予感したそうだ。が飛んでくる、そう彼の経験が告げていた。  グラグラ、とツァイくんの視界が揺れた。 「レギオン」  ツァイくんは咄嗟に言い放ち、自分の前に置いていた空き缶をわざと倒した。それは彼が座して結界の重ね掛けを始める直前、あらかじめ床に設置しておいたものだった。コンクリート壁に空き缶の甲高い音が反響し、中から大量の黒い蠅が飛び出して来た。  黒蠅たちはあっと言うまにツァイくんの周囲を取り囲み、彼を守るようにぐるぐると回転し始めた。見る者があれば、それはツァイくんを中心とした竜巻のように見えたことだろう。  バチバチバチッ  バチチチチチッ  黒蠅たちがツァイくんの周り始めた瞬間、目には見えない何かが蠅たちにぶつかって音をたてた。見る間に十数匹の蠅が床に落ちた。  老女はツァイくんの前方五メートルの位置に不動のまま立っている。頭が左側へ倒れている以外、何かをされた覚えもない。だが明らかに、ツァイくんは自分の目の前に何ものかの気配を感じていた。  すぐそこに、何かがいるのだ。  その何かが動けない自分の前に立ち、即席の黒蠅結界を削っている……! 「うううぬッ!」  ツァイくんは唸り、上目で老女を睨みつけながら霊力を高めた。黒蠅たちが回転速度を上げて行く。 「面白い術を使うんだね」  と老女は言ったそうだ。「どうやって彼らを抑え込んでいるの分からず、こうしてわざわざ足を運んでみたが、おやまあ、その甲斐はあったということだね」  ツァイくんには、その老女の言葉の意味は分からなかった。その老女が柳菊絵であることも彼は知らないし、自分の抑え込んでいる傀儡どもと老女の関係性についても考えが及んでいない。 「あなたは、なにものですか」  ツァイくんの口から、至極シンプルな質問が出た。彼にはほとんど情報がない。私が急を言って台湾から呼び寄せたのだ。日本で何が起きていたのかも、まだほとんど知らされていない。だが、 「あなたは悪い人だね」  とツァイくんは断言した。  自分を攻撃してくるからそう思ったわけではない、と彼は語った。 「あなたの力は、なんだかとても、悲しいよ」  ツァイくんの言葉に、老女の目が三日月のように曲がりくねった。音のない笑い声が空気中を彷徨い、ツァイくんは泣きそうな程の恐怖に心臓を鷲掴みにされたという。 「僕は絶対に結界を解かないぞッ!」  ツァイくんが叫んだ瞬間、老女が右手を振り上げ、ツァイくんの顔面をひっかくように鉤爪のような手で空中を掻いた。もちろん両者の間には物理的な距離がある。届くはずのない攻撃だった。だが無情にもツァイくんの放った回転する黒蠅の結界は縦に切り裂かれ、血の涙を流した少女の顔面が襲い掛かってきた。 「まぼッ!」 「はい」  コンクリート敷きの床に着地したその時、右手と左膝を着いた私の眼下にはツァイくんの転がした空き缶が横たわっていた。ペプシコーラの空き缶だった。  めいちゃんが目を覚ました病室前の廊下からこのボイラー室まで、およそ五階分の空間を貫通して地下まで垂直落下で降りて来た。着地した膝の下に空き缶があったら、さぞかし痛かっただろうなぁ、と思った。 「ま、まぼッ! うえ? ど、どうやって来たんだ?」  天井を見上げるツァイくんの目の前で、突如として顕現した少女の傀儡が牙のような歯をむき出しにしていた。だがその傀儡の首根っこは、今私の左手が掴んでいる。 「ぎりぎり間に合いましたね?」 「信じていたよ、君を」 「結界は、解いていませんね?」 「僕を信じてくれたかい?」 「もちろんです」 「新開さんよりも!?」 「……それはまた別の話です」  私の左手の中で傀儡がその姿を消し、握っていた首筋の感触も消えた。  ――― 消えるのか、と単純に驚いた。  どうやら一般的な傀儡とは違うものらしい。物や人よりも、霊的な存在に近しいなにかを操っているのかもしれない。私は立ち上がり、振り返って老女を正面から見つめた。 「はじめまして、柳菊絵さん。三神幻子です」  菊絵は顔を真っすぐに立て、感情の無い目で私を見据えていた。 「この世の(ことわり)を無視する女か」  と菊絵は言う。「面倒臭いのが来たわ。お暇しようか」 「少し、お話していかれませんか、菊絵さん」 「気易く人の名前を呼ぶんじゃない。どういう育ちをしたのやら」  叱られることも怒りを買うこともなんとも思わないが、遠回しに父を揶揄されたのが気に食わなかった。父を苦しめている張本人かもしれない人物だ。己の立場を分かった上での言葉だとしら、育ちが悪いのは果たしてどちらの方なのか。 「どんな理由があってこのような真似を?」  私の問いに、菊絵は答えなかった。 「やめていただくことは出来ないのですか?」  続けて尋ねる私の言葉にも、僅かに首を傾ける程度の反応しか示さなかった。 「このまま」 「あなた」  私を遮りたいがために、菊絵は言葉を差し挟んで来た。そしてゆっくりと間をおいて、言う。 「よしんば私があなたに迷惑をかけているのだとして、そして突然現れてやめろの一言で止められると思っていたのだとしたら、それは、あなたが何一つ理解などしていないということ」 「……」 「聞く耳など持たぬわ」  菊絵はそう言うと、首を傾けて私の背後に目をやる。 「そこの不思議な力を使う青年。今日の所はあなたに預けたままにしておきます。ですが必ず返してもらいますから、それまでせいぜいお大事になさいよ。くれぐれも食い破られたりしないように」  私の背後に座っているツァイくんにそう言うと、菊絵はそのままくるりと踵を返した。私はあえて止めようとはせず、こう言葉を投げかけた。 「御元気ですか?」 「……」  一歩を踏み出しかけた菊絵さんの足が止まる。 「誰が?」  と、前を向いたまま菊絵が尋ねた。 「さあ、誰でしょう」  私が言うと、菊絵は興ざめしたように歩き始めた。  私は言った。 「カ……エ……セ……」  再び菊絵の足が止まり、無言の右頬がこちらを向いた。 「私が終わらせてみせます」  そう言うと、菊絵の右頬がぐにゃりと歪んだ。その歪みが嗤いなのだと気付くには、彼女が歩いてボイラー室を出て行った後も、しばしの時間を要した。  ――― お前なんかに出来るものか。  柳菊絵の嗤いには、そんな意味が含まれているに違いなかった。  
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