【86】「新開」24

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【86】「新開」24

「どういう事ですか! や、柳菊絵がR医大に現れたんですか!?」 「うるさい黙れ」 「どうしてそんな、いきなり」  秋月六花さんからの電話を受けた坂東さんと僕との会話を、その時、ビスケさんや穂村三兄妹はどのような気持ちで見つめていたのだろう。僕にとってその電話は、先手を打たれた事に対する焦りで激しい混乱をもたらすものだった。だが冷静になって考えてみれば、離れた場所から僕たちを見つめるビスケさんたちの目というものは、とも言い換えられるのだ。そこにどんな感情が隠されているにせよ、現段階ではやはり焦りと混乱、そして大切な人たちを失うことに対する極限の恐怖を感じさせた。彼らが敵か味方かなど、今は考えても仕方がなかった。敵でも味方でも、窮地には変わりないのだ。 「行きましょう」  坂東さんの返答を待たず歩き出そうとした、その時だった。  ――― ケイ!  ビスケさんが叫んだ。  見るとそこには、死人のような顔色の悪さをした残間京(ざんまけい)が、廊下の壁にもたれ掛かって立っていた。通りがかった刑事たちからは「休んでいる」と聞いたはずなのに、どうして……? 「私……」  と残間さんは呟いた。その声はかすれ、瞼も半分以上が閉じている。よく一人で歩いてここまで、と感心する程彼女の生気は失われていた。一度は死んだのだ。そもそも生気など残っているはずがない。 「坂東さん」  焦りのあまり、僕は彼に判断を委ねるように名を呼んだ。  今すぐR医大に戻るべきか、留まって調査を続けるべきか。  すると坂東さんは焦る僕の肩に手を置き、残間京に向かってグイっと体を前に出した。坂東さんの足が一歩を踏み出した時、弱り切った残間さんを守るように、ビスケさん、まみかさん、そして穂村兄弟が立ちふさがった。僕はビスケさんと見つめ合い、思わず下唇を噛んだ。  ――― 僕たちの間には、知らずのうちに見えない境界線が引かれている。  出来ることなら僕だって残間さんを救いたかった。だが出来なかった。それは彼女の命と同じく、せっかく知り合いになれた友人からの信頼をも失うことと同義だったのだ。 「残間、京さんですね?」  と坂東さんが切り出した。  やめろ、とビスケさんは声を上げ、ただでさえ気性の荒い穂村兄弟は今にも牙を剥き出さんと前に出た。だが、百戦錬磨の坂東さんは誰よりも冷静で、誰よりも上手だった。 「別に今じゃなくていいさ……俺はな? だが、近いうちに必ず話を聞きに行くことになる。それならお前らが全員揃ってる公平な場でのほうが良かないか? 見た所大分参ってるようだ。時間は掛けない、ニサン質問をしたいだけだ」 「見たら分かるだろ!今はそんなことやってる場合じゃない、ちゃんと休ませないと、また京は……」  涙を流して訴えかけるビスケさんの言葉にも、坂東さんは怯まなかった。 「ああ、かもしれんな?」  穂村直政が怒号を放ち、光政が殴り掛かる勢いで飛び出して来た。僕が身体を張って止めに入ろうとすると、先に坂東さんが僕を突き飛ばした。そして光政が繰り出した右ストレートを右手で掴むと、そのまま光政の身体を手前に引いて強引に羽交い絞めにする。流れるようなその動きに、光政自身よりも兄直政の目が驚きに見開かれた。 「なんだ、どうしかしたのか」  直政の声を聞きつけて他の警察職員たちが集まって来た。 「そこで何をやってるんです?」  丁寧な言葉づかいながら威圧的な目をした大柄な制服警官が、坂東さんと彼に締め上げられている光政を睨んだ。 「何も。ちょっと灸をすえてるだけだが」  坂東さんの口調に、大柄な警察官が「ああ?」と不機嫌な声を上げた。とこそへ、スーツ姿の刑事ら数名が通りがかり、坂東さんを見るなり嫌そうな顔でそれぞれ頭を振った。そしてその内の一人が大柄警察官の肩に手を置くと、耳元でぽつりと何かを呟いた。僕の見た限りでは、その刑事の唇は「チョウジ」と動いた。制服警官は慌てた素振りで坂東さんから目を逸らし、そのまま何も言わずに立ち去った。他の職員たちもそれに習い、この場はいかにも坂東さんに有利な独壇場と化した。坂東さんのことだから、強気に出るタイミングもここだと分かっていたに違いない。 「離せよ」  と光政が身をよじる。しかし坂東さんの左腕が光政の首を締め上げており、いつもの勢いは殺されていた。 「残間さん。聞いてもいいかな」  静かに尋ねる坂東さんに、抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。ビスケさんも直政も、坂東さんではなく残間京の出方に注視した。 「何も言わなくていいんだぞ」  とそれでも、直政は静かに援護する。 「マッポなんて全員クソだよ」  とビスケさんが毒づく。  すると意外なことに、残間さんは持たれかかっていた壁から体を起こし、 「いや、もう、大丈夫なんで」  と言って微笑んだ。  ――― なんとなく雰囲気が違う、と僕は感じた。 「あんた、自分がどうなったか理解してるか?」  と坂東さんが聞いた。 「……」  残間さんは微かに首を捻り、 「どう……って?」  と聞き返した。 「自分が一度死んだ自覚はあるか?」  この上なく率直な質問に直政が唸る。 「ああー……はい」 「なぜ生きてると思う?」 「さあ。でもこういう話ってよく聞きません? 仮死状態だったーとか、息を吹き返したーとか。ネットなんかでも、ニュースなんかでも」 「ああ」  坂東さんが同意するように頷き、微笑んで残間さんを見据えた。「だがあんたは違うな。違う気がするんだ。それが何なのか、教えてもらえないだろうか」  残間さんは呆れたように笑って俯いた。釣られて直政が鼻で笑い、坂東さんの腕の中で光政が「馬鹿か」と呟いた。坂東さんはそのまま光政を締め落し、 「俺は本気で聞いてるんだ」  と凄みのある声で言った。腕を解いた坂東さんの足元に光政が音もなく横たわった。直政の身体が怒りに打ち震える。 「眼鏡ェ」  ビスケさんが言う。「お前自分が何やってるかわかってんだろうな?」 「ほお。なんだよ、俺が何をしたんだ? 教えてくれよビスケット」 「いい年こいて人の名前で遊んでじゃねえよ恥ずかしくねえのか」 「いい年こいてあだ名で呼ばれてんじゃねえよ、恥ずかしくねえの……あ、俺もだわ」 「ふざけんな!」  ビスケさんの怒りが頂点に達しようとした時、残間さんがそっと左手でビスケさんの肩に触れた。 「あのー……」  そう割って入る残間さんの目は、坂東さんではなく僕を見ていた。「あなたは私に、助からないって、そう仰いましたよね? 逆にどうして私は今、ここにいるんでしょうか」  尋ねる残間さんを真っすぐに見返し、僕は正直に答えた。 「言ってません」 「……はい?」 「僕はそんな事、ひとことも言ってませんよ。あなたの背後にいた何者かが、あなたの側でその言葉を呟いたのです」 「悪……霊?」 「人は死ねば生き返ったりしません。もし生き返ったのなら……それ相応の理由があります」 「理由」 「そうです。僕と坂東さんはそのことを知りたいだけです」 「そう言われても……」  もう良いだろう新開、とまたしてもビスケさんが止めに入る。僕は右手を翳して、 「一つだけ、いいですか」  と残間さんを見つめた。  頷く彼女に、僕はイチかバチかの質問を投げかけた。もしこの質問が全くの的外れで見当違いだった場合、僕と坂東さんは今すぐこの場を離れて、R医大へ戻るべきなのだ。 「残間さん。お母様の旧姓を、教えていただけませんか?」  坂東さんの視線が僕に突き刺さった。  自分でも馬鹿な質問をしていると分かっている。だがそうとでも考えない限り、人が生き返る事象に説明がつかない。もし本当に残間京が死んで生き返ったというのなら、は大いにある……。 「母ですか」  残間さんはやや寂し気な顔で俯いた後、やがてこう答えた。「母は、私が幼い頃に死んだと聞かされています。いきなり旧姓と言われても、直接聞いたわけではないので、正しいかどうかは分かりません」 「構いません。覚えておいでなら、教えてくださいませんか」 「何故ですか?」 「どうしてあなたが今もここに立っているのか、僕と坂東さんなら、その理由が分かるかもしれません」  残間さんはじっと僕の目を見た。  ――― クロイ、と聞いています。 「母の名前は、旧姓、黒井。黒い井戸に、七つの永遠。黒井七永、それが私の母です」
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