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【87】「三神」(仮)
リハビリというわけでもなく、なんとなくこれを書いている。
名前も思い出せず、どこにも属さない自分というものの頼りなさに気が狂いそうだったからだ。鏡を見れば、皺だらけの老いた顔にある程度年齢の想像はつく。
誰もが自分を「みかみ」と呼ぶが、何一つ思い出せないことで、却って、知らない人間の名前などおぞましくすらある。ただ、そうは言っても、思い出せぬだけで自分が「みかみ」なのだろうと思い込むことで、なんとなく、諦めに似た感情が発狂寸前だった心持ちに歯止めをかけている気もする。ある種の救いと言えるのかもしれない。不思議なものである。自分は「みかみ」ではないが、「みかみ」だと思うことで、落ち着きを取り戻せるのだ。
みかみ。漢字では「三神」と書くらしい。ありがちな響きのわりには御大層な字面である。
自分はなにものだろうか。
なぜこの年で記憶を失ったのだろうか。
はたして失ったのは記憶だけだろうか。
どうでもいいことは思い出せる。
おそらく自分は、甘いものが好きだということ。
看護師が運んでくれた病院食を一目見て、チョコレートが食べたいと思った。何故食べたいのか自分でも分からないが、おそらく本当の自分が欲しているのだろう。歯がゆい。いや、腹立たしい。今の自分は本当は何が食べたいのか、失われた記憶が差し伸べる手など頼らず、今の自分の意志を大切にしてやりたいと思う。だが、やはりチョコレートは希望しておいた。
その男は突然現れた。
もちろん見知らぬ人間である。
一瞬医師かと勘違いしたが、白衣を着ていないと分かると途端に恐怖が襲って来た。不審者だと思い、両手を振って追い返そうとした。だがその男は柔和な笑みを浮かべてベッドの足元に座ると、話をしましょう、と言った。見れば自分とそう年の変わらない、白髪交じりの優男だった。怖いか怖くないかで言えば、無遠慮に病室へ立ち入ってきた分、驚きが上乗せされてやはり怖い。が、暴力的な雰囲気などは皆無だった。
「なんの話だ、お前は誰だ」
私が聞くと、男はこう答えた。
「私はあなたを知っています」
またか。
私は頭に来て怒鳴り付けようと思った。しかしなんとか堪えて、
「どうせまた『みかみ』と呼ぶのだろう、今はそんな話など聞きたくない」
と答えると、男は不思議そうな顔で首を傾げた。
「なぜですか。ご自分が誰なのか、知りたくはないですか」
「聞いたとて思い出せん。気分が悪くなるだけだ」
私が答えると、男は困ったような笑みを受かべて頭を振り、
「そんなはずはない」
と言い切った。「では、こうしましょう。私はこれから、ある男の半生を、あなたに話してお聞かせします。あなたはただ黙ってそれを聞いていればよろしい。無理に誰それと決めつけなくていい。私の話を聞いてさえくれればそれでいい」
「なんのために」
すると男はまた優しく微笑み、言った。
「人は、何も持たずに生きていくことはできません。記憶を失ったあなたがこの先も生きていくためには、心の支えが必要です」
「だからなんだというんだ」
「あなたの心の中に、ある男の物語を書き加えたいのです。そうすることで、例え記憶を失ったままだとしても、あなたは必ずや胸を張り、喜びに満ちた人生を歩み続けれるはずだ」
「そんなわけがなかろう。知らない人間の半生を聞いて、何故ワシがそれを誇れると言うんだね?」
「……ワシ」
「なんだ」
「あなたは今ご自身を、私ではなく、ワシと称された」
「何を言ってるんだ、あんた」
「あなたの記憶は必ずや呼び戻される。それまでは今のご自身を大切にされながら、ただ私の話相手になってくだされば良いのです」
「だから……」
「今はまだ疑ってくれてかまいません。だけど時間はあるでしょう? 話を聞くだけ聞いてくださってもいいじゃありませんか」
そう言われて、私も困った。
男の口調が実に柔らかく、話の持って行き方も巧みだったからだ。今の自分を大切にと言われて悪い気はしなかったし、どうせ何も思出せない内は時間を持て余したただのお荷物だ。私はこの時、表面上腹を立ててはいたものの、実際にはこの男の話をもっと聞いてみたいと思うようになっていた。
「あんた、誰なんだ」
私の問いに、男は楽し気な笑みを浮かべて、言った。
「実はこれまでに、何度かお会いしているはずなんですけどね」
「だから思い出せんと言ってるだろう!」
「そう声を張り上げるもんじゃない。せっかくの貫禄が台無しじゃないですか……そうですね、最近で言えば、とある女性の家の前で、お会いしましたね」
「女性の家?」
「思い出せませんか?」
「知らん。ワシが……私がその、女性の家を訪れたのか?」
「左様です」
「家族か?」
「あはは。家族の家を、女性の家と呼んだりしますか?」
「……じゃあ誰だ」
「由宇忍」
――― ポツリと。
呟くようにその男は名前らしきものを口にした。
ユウ、シノブ。
なんとか気持ちを落ち着けて思い出そうと試みるも、全くの無駄だった。一向に思い出す気配がない。
「そうですか。まあ、いきなり思い出せと言われても無理かもしれませんね。では、私の話を聞いてもらってもよろしいですか?」
「……あんたの半生かね?」
私が問うと、男はやおら真剣な目付きになって、私の顔をじっと見つめた。
私もその男の顔をじっと見つめ返した。
するとやがて男の目に薄っすらと涙が浮かび、私ははっと息を呑んで身を引いた。
「三神、三歳という御人の話です」
「それは……」
「まあ、そうと思わず聞いてくださってかまいません。名前なんて、正直なんだって良いのかもしれませんね。生きてさえいれば、道はいつか必ず開けるのでしょうから」
私は口に出しかけた疑問をとりあえずは呑み込んで、男の話に付き合ってやることにした。いちいち格言めいた言葉を引用するやり口は少々胃もたれしそうだが、男の目に浮かんだ涙だけは、信じられる気がしたのだ。
そして男は静かに、三神三歳という男の人生を語り始めた。
三神とやらがまだ若かった時代の話から始まり、人生の核となる信念を見出し、師と仰ぐ人物から学び、研鑽し、経験を積み重ねて走り続ける様は、まるで冒険活劇を聞いているかのような面白味に溢れていた。男の口調が淀みなく流麗であったことと、話の随所で人生の岐路に立つ三神三歳の、出す答え出す答えが見事なまでに私好みな思考回路であったこともまた、愉快痛快と感じる由縁でもあった。
特に感じ入ったのは、まだ幼い少女を引き取り、それまで長年世話になった所属団体を飛び出すくだりである。三神の所属する組織は優秀な人材を多く抱える営利団体という印象を受けたが、初めて聞く私には具体的な業務内容がうまく想像出来なかった。なんとなく人材派遣業のような組織だろうかと思いながら話を聞いていると、なんとその組織に預けられていた年端も行かぬ少女を、金儲けの手段として組織が利用し始めた、と男が語り始めたのだ。
「金儲けって、なんだ」
「当時の顧客は主に政財界のトップたちでした。つまり」
「おいおいおい」
「いや……まあ、なんというか」
「そいつぁ、いかんよ、なんともそれは」
「まあ、ううん、少しあなたの想像されているお話とは違うかもしれませんが」
「酷い話だ。けしからんよ」
憤る私に頷き返し、
「それは、実際そうなのです」
と男は先を続ける。「実にけしからんのです。そこで三神さんは、その少女を伴い組織から飛び出していくわけです」
「ほお、それは良い……!」
いつしか時が経つのも忘れて、私はその男の話に聞き入っていた。
男がいつ現れて、どのくらいの時間私の側で話をしていたのか、今となっては定かではない。はっきりしているのはただ一つ、その男の名前だけである。
男は自分を、どいれいらく、と名乗った。
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