マグカップと魚肉ソーセージと忘れた名前に泣いたから。

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 彼と別れよう、そう決めた朝にマグカップが割れた。取手のところに薄茶色にコーヒーや茶渋が染み込んだひび割れがあって、そこからぽきりと折れてしまうのはわかるけれども、縦方向に真っ二つで割れてしまったのだった。付き合って最初の誕生日、彼が私にと買ってくれたもので、手のひらにしっくりくるし、よくなじむからそのまま使って4年ぐらいになっていたのだった。  その間、私と彼の間にはなんだかひゅうひゅうと冷たい風のようなものが流れるように隙間が開いて行って、連絡や会うことがどんどん少なくなって行った。  結婚しよう、と彼がプロポーズしてくれたぐらいから、そのひゅうひゅうは吹き始めた気がする。もともと、結婚にはあんまり乗り気でもないし、よく気持ちが変わるタイプの性格だってわかっていたから、そのうちになんてはぐらかしていた私も悪かったのかもしれないけれど、彼は彼で準備もしない、ただ私の住んでいるワンルームマンションにやってきて抱いて帰るだけの関係になって行って、なんだか違うよねと思いながら、ベッドで彼を受け入れた。  割れたマグカップは、怪我をしないように毛羽立って、ほつれたタオルに包んでビニール袋に入れてぎゅっと口元を縛ってゴミ箱の近くに置くと、私はそのまま仕事へ行った。    ねえ、あのマグカップどうしたのと、抱き合った後に彼が訊いてきた。割れたから捨てたよ、と答えるとベッドから私を突き落とし、鬼のように顔を真っ赤にして「なんでだよ!俺が買ってやったものだろ、乱暴に扱ったんだろ!」と低く、大きな声で怒鳴った。びっくりして、私は床に散らばった下着をかき集めて着替えると、スマホと財布だけ持って、外に出た。  外はまだ暗くて、かすかに沈丁花の香りがして気持ちがよく、私は自分が逃げたことを呆れるほど単純に忘れて、夜の散歩にしゃれ込む。スマホがチカチカ光ったり、ブルブル震えるので「割れたものなら、ゴミ箱の近くにあるから。勝手に持って帰ってください。二度とこないで」とだけラインにメッセージを送って、電源を切った。  いつも会社帰りか、休みの昼間に行くコンビニに入る。いらっしゃいませ、とやる気のないゆるい声かけをする若い女の子の店員は、どこを見ているかわかんない眼差しを浮かべてレジの前に立っていて、冷蔵庫を開けてはしゃぐ若い男女は楽しそうにお酒を選んで、ベタベタくっついている。  楽しくやりなよ、私と違ってね。  胸の中で呼びかけて、彼らに便乗し缶チューハイと彼が苦手で私が大好物な魚肉ソーセージを買って、外に出る。彼は追ってきていない。もしかしたら、もう部屋を出ているんだろうか。油断大敵かな、どうなのかな。  なんだかウキウキしてきて、いや不謹慎?ではあるけれども私は鬼ごっこみたいな感覚まで浮かんできていて、さてどうやって逃げようかなんて思って、沈丁花のにおいをかぎながら、コンビニから数分のところにある児童公園を目指そうか、それともこのままぐるぐる歩き回ろうか、いやいや財布があるんだからタクシー拾ってどっか別の街にでも行こうか。いろいろプランが浮かんできて、ニヤニヤしてくる。プシュと弾ける音をたてながら、缶チューハイを開けてごくごく飲む。さくらんぼの甘酸っぱい味と、喉がじんわりあったかくなる感触に心がふわふわ軽くなる。  なあんだ、結婚に乗り気じゃなかったんだ。  あの男と、結婚なんかしたくなかったんだ。  気づいてよかった、さすが私と納得してふらふら、公園に行くでもなく、近所をぐるぐる歩き回りながら、わかったとたん急にいろんなものがどうでも良くなって、空を見上げながら涙を流した。  本当は知ってたんだ、抱き合う時、あなたの腕がもう一本増えていたこと。  本当はわかっていたんだ、私が風呂に入ったり、料理をしているあいだに、部屋にかさかさ出てきた黒い虫を食べていたこと。  本当は気づいていたんだ、マグカップが割れたのは、おまじないが解けたからってこと。  目の前にいるあいつは、もう蛇みたいにぬらぬらしていて、しゃらしゃらと赤黒くて長い舌を出して私に絡みついてくる。抱き合うと、すごく身体がだるくなる。髪の毛が生臭くなって、時折変な引っ掻き傷ができていて、知らないフリするのに精一杯だった。  今頃、正体を曝け出しているかしら。  だから、追いかけてこないのかしら。  魚肉ソーセージのビニールにかじりつき、ピリピリ剥がしてカブリつく。久々に食べる安っぽくて懐かしい味が、嬉しくなってくる。さて、空が白んできた。始発までどれぐらいかしら。いつの間に、時間が過ぎていたかしら。明るくなれば、あいつはきっと、人間の姿に戻って素知らぬ顔をして街に出て、仕事をする社会人になって、のうのうと動いているだろう。  始発が出て、空が紺色から藍色、橙色にとグラデーションに変わって朝を満たした頃ようやくマンションの部屋に戻ってみるとかぎは開いていて、あいつの靴はなくて、その代わりぬらぬらと生臭い液体が床や玄関をぬらぬらと鈍い光を反射させながら濡らしていた。  あのマンション、夜中になると、大きな蛇みたいなのが絡みついているらしい。  安いからって、何にもないからって、気持ち悪いと思うよ。  気をつけたほうがいいよ、引っ越せるといいね。  何も知らない同僚はそんな噂を私に聞かせ、心配する。  あのマンションには、化け物が憑いているって。  誰も知らない、知らないまま進んで知らないまま終わった。  化け物はマンションじゃなくて、私に憑いていたことを。  そして、怒りに任せて出て行ったことも。  バイバイ、元気でね。ねえ、あなたの名前忘れちゃった。もう思い出せないし、思い出したくもないけれど。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!