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白永源太(しろながげんた)は昨夜というか今朝描き上げたはずの絵を見て愕然とした。
枕元で叫び散らすスマホのアラーム音でいつものように目覚めた。夜更かしのせいで重たい体を布団の中から持ち上げるといつもの光景が目に入った。散らかった絵具。無造作に置かれた絵筆、開かれたパレット。いつもの光景のはずだった。しかし、絵だけは違った。スケッチブックに描かれた色鮮やかなはずだった絵は真っ白な紙に戻っていた。
「は?」
素っ頓狂で大きな声が出た。スケッチブックをめくる、そしてまためくる。めくれば今まで描いてきた絵があるはずなのだ。だがそこにあったのは、白、白、白。白紙だけだった。手のひらに汗が滲んだ。一体どういうことだ。一夜にして絵が真っ白になった。盗まれたのだろうか、いや、こんな無名どころかどこにでもいる大学生の絵を盗んだところで少しの稼ぎにもなりはしないし代わりに白いスケッチブックを残す意味もわからない。そもそも戸締りは確実にしていた。間違いない。
困り果てた白永は助けを求めた。布団に放り出されたスマホを手にとり電話をかける。相手は白永の親友である黒部重斗(くろべじゅうと)だった。三コール鳴った後、気だるげな声が響いてきた。
「おお、どうしたあ」
「大変なんだ、とりあえずうちに来てくれないか」
「ええ……昨日の夜中までバイトだったんだよ、しんどいから寝る」
「朝ごはんつくってやるから、いいから来い」
それだけ言って一方的に通話を切った。白永も黒部も一人暮らしをしていて何かとお互いの部屋に泊まるので部屋の場所は知っていた。お互いの下宿先へ行ったときは大体、夜が明けるまで芸術について議論を交わしていた。白永は水彩画を愛しているが黒部は俳句を愛しており二人の得意とする領域はまったく異なっていた。黒部は自信家で俳句を白永に披露したがった。一方、白永はシャイであまり絵をみせたがらなかったし、自分の絵に一度も満足できたことはなかった。親に反対されて芸術の道を中途半端に進んでいるという点では共通していた。だからこそ苦労を分かち合い意気投合した。
通話を終えてから十五分、チャイムが部屋に鳴り響いた。玄関の方へ行く。どうせ黒部だろうと思ったが慎重な白永は一応、息を殺してドアスコープから外の様子を伺った。そこでは髪を整えずに来た黒部が欠伸をしてぼんやりと立っていた。ドアを開けて部屋に招き入れる。
「うわ、相変わらず汚い」
開口一番それかと思ったがこちらのわがままで呼びつけたので文句は言わないでおく。それに何より部屋が汚いのは事実だ。黒部は目をこすりながら思い出したように「お邪魔します」とつぶやいてテーブルの近くに腰を下ろした。
「それで、一体どうしたんだ。霊でも出たのかい」
「そうかもしれない」
冗談めかして言われた言葉に真面目に返答すれば弾かれたようにひっくり返った声が返って来た。白永は真っ白なスケッチブックを手に持ち黒部に見せた。
「これを見てくれ、昨日描き上げたはずなのに目が覚めたらなぜか白紙に戻っていた」
「白紙……」
黒部は目をしばたたかせて首を傾げた。そして春のような笑顔を浮かべた。
「空も緑も自然をよく見つめぬいたような綺麗な色づかいだ、それは俺には兼六の絵に見える。とても白紙には見えない。あ、もしかして何かの洒落だったのか、裸の王様みたいなノリだったのか、真面目に話してしまった」
白永は驚きで声を失った。確かに完成させた絵は兼六園を描いたものだ。はっきりと覚えている。スケッチブックを穴が開くほど見つめるが、やはりそこには眩しいばかりの白があるだけで、自然な色は何一つ浮かんでいなかった。角度を変えようが瞬きをしようがやはり白い。思わず唸り声をあげた。
「洒落じゃない、冗談じゃない。俺には白紙にしか見えない」
黒部には絵が見えているのに白永には見えていない。一体どういうことなのかお手上げで白永は眉尻を下げた。黒部はふむと呟いて左上のあたりを見つめた。笑顔はとっくに消えていて重たい沈黙があるのみだった。
永遠とも思われた沈黙をやぶったのは間の抜けた腹の音だった。普段なら聞こえないだろうが静寂の中では汽笛のような腹の音は非常によく響いた。黒部は神妙な面持ちのまま「お腹がすいた」と蚊の鳴くような声で呟いた。緊張の糸はぷつりと切れてどこかへ消えた。白永は手元にあった絵具を思わず投げそうになった。
「少し待っていてくれ」
ベーコンエッグを手早くつくり皿にのせる。焼けたトーストを二枚ずつ別の皿に重ねる。皿は黒部が運んでいく。白永が冷蔵庫から牛乳パックを取り出したとき、あることに気づいた。
白い。何も書かれていない。製品名も説明も賞味期限も。
「黒部、これには何がかいてある?」
「え?可哀そうなほど笑顔の牛だ。まさかそれも真っ白に見えるのかい」
白永は無言で頷いた。
すべての皿とコップを運び終えて向かい合って座る。黒部はベーコンエッグを一心に見つめ、目を輝かせていた。黒部は料理ができない。ひたすら下手で最初は肉に火を通すこともできなかった。だから白永が何をつくっても大体良い反応をする。白永はそんな反応をみて悪い気がしなかったし、むしろ黒部に料理をつくるのは好きだった。挨拶をして同時に食べ始める。最初は黙々と食べ物を口に運んでいたがしばらくすると黒部は口を開いた。
「スケッチブックと牛乳パックか」
そう言って黒部は唸った。左上へ目を向ける。どこを見ているのかわからない。この動作は考え事をするときいつもする黒部の癖なのだと最近気が付いた。黒部はおもむろに立ち上がると床の上に散らばる絵具やらゴミやらを避けて壁に近づいた。そこにはめくるのを忘れられて役目を果たせなくなったカレンダーがあった。黒部は指をさして「これはどうだい」ときいた。確かに白紙に見えた。正直に何も書かれていないと答えた。黒部は納得したように頷いてテーブルに戻って来た。次は鞄をいじって個包装のチョコレートと置き、ノートを取り出して広げてみせた。
「チョコレートの文字は見えるが、ノートは白い。表紙にも中にも何も書いていない」
黒部は確信したと言わんばかりに口の端を吊り上げた。牛乳を一息に飲み干して息をつく。
「なるほど。白永は紙にかいてあることが何も見えなくなっているみたいだ。文字も絵も。プラスチックの材質なら見れるらしいし、周りの景色も普通に見えていそうだから紙に限定されているのかもしれない」
やはりそうなのか。なぜか紙にかかれたことだけが見えなくなっている。なにかの病気なのか。しかしそんなものは耳にしたことがない。しかもいきなりだ。目が覚めたら世界中の紙が白く見えるようになるなんてそんなことがあってたまるか。やり場のない怒りが胸のあたりで重たく廻り始めた。
「一体どうしてこんなことになったんだ」
「わからない。わからないけどまた寝たら戻るかもしれないじゃあないか」
そう言って黒部は屈託のない笑顔を浮かべ下品な笑い声をあげた。その笑い声を聞いていたら真剣に考えていたことが馬鹿らしくなってきて自分の中の怒りがどうでもよくなってしまった。
「君は絵を描きすぎだ。毎日、睡眠を限界まで削って描いているだろう。もしかしたら少し休めと身体が警鐘をならしているのかもしれない」
黒部は特に深く考えるでもなく言ったのだろう。しかし、その言葉はひどく鈍い音を持っていた。耳から容赦なく入りこんできて白永の胸をまた重くさせた。白永の暗い空気を察したのか黒部は「美味しかった」と言ってキッチンに食器を持っていった。その後二人は白紙の話を再び持ち出すことはなく、珍しく芸術についての話をすることもなく授業のことやら教授などを話題にした。白永は終始、上の空で何を話したのかは断片的にしか思い出せなかった。
黒部が帰ったあと、白永は一人で悶々とした。もしもこのまま戻らなかったらどうしよう。絵が描けなくなったら、生きる意味を一つ奪われたようなものだ。心に大きな穴を開けられるようなものだ。恋人をなくした気持ちとはきっとこれと似たものだろうと白永は思った。目を閉じていたが頭は冴えていてさまざまな考えが浮かんでは消えていく。心音はうるさく跳ねていて特に耳のあたりがどくどくと騒がしい。
けたたましいアラーム音が聞こえてきて驚いて目を開ける。眠っていたのか眠っていなかったのかよくわからない。アラームを停止させると次にスケッチブックを開いた。やはりどのページを開いても白い。ため息が出てきた。寝てもなおらなかった、困ったことだ。何故か昨日より頭は冷静だった。支度を済ませて大学へと向かう。
紙にかかれたものが何も見えないというのは意外と不便だった。授業中に気づいたがノートがとれない。シャープペンシルの芯が黒い線を描こうとした瞬間に白に溶けていく。加えて教授が配ったレジュメも教科書の表紙も中身も真っ白だった。ノートは仕方がないのでパソコンをつかってメモをとることにした。購買で買い物をしようとしたら値札の文字が見えず値段がわからなかった。スーパーでも白紙の値札が並んでいた。図書館にある本は真っ白でどれがどの本かわからない。バイトで電話対応をしたときもメモがとれずに困った。おかげで店長にはひどく叱られた。切符も真っ白だ。パソコンやスマホがあふれているこんな時代でも意外と紙は生きているのだと感じた。
白紙のせいで困ることがあれば逐一黒部に話した。黒部はいつも屈託のない笑顔でからからと笑い飛ばした。そして黒部はいつも言っていた。
「最高の題材になるじゃあないか」
その笑い声と言葉をきくといつも白永の心はいつも軽くなった。だがやはり白永は絵を描きたかった。白永は自分の絵が嫌いで一度も満足できたことはない。それでも二日、三日と日が経つにつれて白紙に慣れてきたが絵への欲求は強まるばかりで底が知れなかった。さらに白紙を見つめる日々を重ねるたびに、思い知ることがあった。絵がないと生きていけないと思っていたが、絵を描こうが描けまいが容赦なく朝はやってくる。そして自分は生きている。自分は生きている上で絵は必要ないのだと白永は白紙によって思い知らされたのだった。
四日目。学校終わりに医者に診てもらったが目に異常はないようだった。
「まだ戻らないのかい」
五日目。黒部と昼食をとっているときに尋ねられた。白永は頷いた。
「まったく戻る気配がない。いい加減に真っ白な紙が張り巡らされた掲示板やら白紙の値札には飽きてきた」
そして何よりも絵が描きたい。口には出さずに心の中にしまっておいた。話してしまわないうちにメンマを口に運んで沈黙の言い訳にした。向かいの席の黒部は「そうかあ」と適当な相槌をうったきり左上を見つめている。
「よしわかった」
黒部の言葉にはじかれたように前を見た。目を見開いた。心が読まれたのではないかと体温が下がるのを感じた。何がわかったのかが白永にはわからなかった。
「明日の夕方6時に、うちに来てくれ」
黒部はそれだけ言うと、勢いよく麺をすすりあげ満足そうな顔で汁まで飲み干した。白永は何も言わずに薬味のネギを噛んだ。味はしなかった。
その夜、白永は夢をみた。真っ白な町にただ一人で佇んでいる自分。人も建物も影も木も空も。どこまでも真っ白で不純な色は何一つない。自分だけが違う色を持っていた。白は清楚な色だ。清潔で、どんな色をも包み込む優しさがある。しかしここまでの白は暴力的で痛い。白永はどこまでも続く白を見て目の奥に激痛が走るのを感じた。痛い。やがてその痛みは頭に上った。痛い痛い。目を休めようと地面を見るが地面も白い。
白い地面に一本の絵筆が混ざっているのが見えた。目を凝らして見失わないように拾いあげる。手に持ったところから絵筆が色を持っていくのがわかる。筆についていた色は藍色だった。今の白永には優しい救いのような色だった。絵筆で白を塗り替えようとした。しかし藍色は白色に溶けていく。どれだけ重ねて塗ろうと試みても藍色はただ静かに悲鳴をあげることもなく白に飲み込まれていった。
やがて筆の藍色はかすれていった。白永は無力感でいっぱいになりながらも筆を力いっぱい握りしめた。そこへやってきたのは黒部だった。黒部は筆についたものと同じ夜へ向かっていくような藍色をしていた。黒部は白永の手に藍色の手を重ねて目を見つめて言った。
「あい」
「は?」
六日目。間の抜けた声が口から飛び出していきその声で目が覚めた。久々に夢をみたが意味のわからない夢だった。スマホの画面をみると朝の七時だった。アラームは八時に設定している。眼が冴えて眠る気にもならなかったので起きることにした。布団から這い出る。
「あい」
黒部のやけに透き通った声が耳に残っていた。人の夢に入り込んでわけのわからない言葉を吐いていった友人。だが、どこかできいたことのある言葉だ、それも黒部自身の口から。しかし白永はいつどんな場面できいた言葉なのか思い出せなかった。布団から出て真っ先にスケッチブックを開いたがやはりどのページも白紙だった。
夕方に黒部の部屋へ向かった。黒部は少し駅から離れたマンションに住んでいる。立地はあまりよくないが部屋は広いし家賃は安めだ。冷蔵庫からつくりおきの酢豚を持参した。どうせ黒部の冷蔵庫にはろくなものが入っていない。この前は納豆となぜかカップ麺が入れられていた。食生活に関しては全面的に信用していない。
玄関のチャイムを鳴らす。勢いよく足音が跳ねる音がする。三回、四回と跳ねたあとドアが開き友人が現れた。
「いらっしゃい」
招かれるまま部屋に入る。白永の部屋とは対照的に黒部の部屋は綺麗だった。ものが整頓されているし少しのごみもない。普段から清掃に気を使っていることがうかがえる。
酢豚を渡すと目を輝かせてお礼を言った。タッパーごと冷蔵庫に入れると米を炊こうとなって実家から送られてきたものを不慣れな手つきで一合はかり炊飯器に押し込んだ。
炊飯器をセットし終えたところでテーブルをはさみ、向かい合って座り一息ついた。机の上にはノートとカレンダーだけが置かれている。両方白い。カレンダーは、まめな友人のことだからきっと昨日の日付まで線で消してあるのだろう。ノートは何について書かれているのか検討もつかないが。突然黒部は立ち上がった。
「今日は試したいことがある」
そう言って彼は箱を押し入れから取り出してきた。箱は白い。段ボールなのかもしれない。机に置くとがしゃんと愉快な音がなった。
「なんだそれは」
「君の白紙をなおすための実験道具だよ。色々考えたけど、やはり君の新作を見られないのは悲しい。俺は君の新作をみたいんだ。体を壊すのではないかと心配だから休み休み描いてほしいが」
白永は息をのんだ。
「俺の絵をみたいのか」
「もちろん。俺は白永の絵を、白永より好いている自信がある」
黒部は誇らしげに胸をはった。白永は押し黙った。白永は自分の絵に自信がなかった。才能がなくどれだけ描いても、誰の足元にも及ばないといつも感じていた。それをこの友人は好きだと言ってくれた。白永は体中の毒が抜けていくように感じた。まるで、昨日の夢の中に出てきた藍色のようだ。
そのとき白永は思い出した。黒部が言っていた「あい」の意味を。あれは白永が初めてきいた黒部の俳句だった。
一年ほど前、黒部が嬉しそうに俳句を見てくれと言うのでノートを見てみたらそこにはただ「あい」とだけ書いてあった。白永はどんな五七五が書かれているのかと期待していたので拍子抜けした。「あい」だから愛かもしれないし、藍かもしれない。哀の可能性だってある。そもそもこれは俳句なのか。文字数も季語の存在も無視してこんなに自由でいいのか。白永は不機嫌に問い詰めると黒部は笑っていた。黒部はいつも俳句をつくっているときも見せるときも楽しそうだった。
自由に楽しく。完成したらうれしい。
小さなときにそんな感情を置いてきてしまったのかもしれない。この友人はそれを忘れずにひたすら楽しんでいる。白永はそんな黒部をうらやましいと思ったし、尊敬していた。たった二文字に自分が絵を描く理由を思い出させられた。
「俳句ってすごいな」
「え?どうしたんだい突然……当たり前のことだけど」
困惑する友人に反して白永は一人で楽しそうに笑った。
その後、結局黒部はどこからか入手したスリーディーメガネやらを白永にかけさせたり、紙の材質に関係があるかもしれないと和紙やら新聞紙やらをみせたり挙句の果てに催眠術を試そうとしてきた。どれも効果はなかったし、ごはんを食べた後は結局またこれからの芸術に関しての話し合いが始まって夜更けまで終わらなかった。黒部は次の日にまたバイトがあるというので白永は帰ることにした。
七日目。けたたましいアラーム音で目を覚ましてスケッチブックを開く。そこには色鮮やかな世界が広がっていた。目の奥に色が滲んでいった。そうして白永は満足そうな顔をした。
「なんだ、君が好きという絵は案外悪くないじゃあないか」
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