もやしホワイト

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 見慣れない白い天井を見た瞬間に、田伏凛子(たぶせりんこ)の眠気は急激に醒めていった。  いつもであれば、朝なり昼なりに目が覚めて一番最初に視界に飛び込んでくるのは、三十年の歴史を持つ染みだらけの板張り天井、それから、前の住人が残していった吊下げ式の照明だ。それが、今日に限っては、洋室のまっ白な天井、しかも、照明は埋め込み式。背中に伝わる感覚も、いつもの床の硬さを隠せない煎餅布団のそれではない。現実には不可能だが、「雲の上で寝ているみたい」と例えてもいい柔らかさ、そして、身体の上の掛け布団も普段使っている重くて寒い、安い綿布団ではなく、まるで羽の様な…いや、むしろ羽根布団だ。  なぜ、自分は自らのねぐらである安アパートの一室とは別の場所に寝ているのだろう?凛子は記憶を手繰り始めた。    昨日は、サークルの新年会だった。  凛子はそのやたらと人数の多いサークルに大学入学直後に入り、学生生活序盤にはサークルの集まりに顔を出すこともちょいちょいした。だが、いつの頃からか学費稼ぎのアルバイトに忙殺されるようになった凛子は、今やまったくの幽霊会員だった。  それがなぜ急に新年会になど出席したかといえば、親しくしている友人に「参加したいが、仲が良い人がいない中に一人では嫌だ」と、しつこく同行を頼まれたからだった。いつもなら、ケチの権化である凛子は、そういった参加費を必要とする集まりに対し断固として欠席の構えなのだが、たまたま年末の短期アルバイトの稼ぎが入金された時期と重なり懐が暖かく、友人には代返等してもらっていた恩もあり、珍しく出席することにしたのだった。  友人と二人で会場である居酒屋に行き、新年会が始まると友人はすぐに彼女の目的を果たしてしまった。そもそも友人にはサークル内に意中の男子がおり、彼女が新年会に出たがったのも、その彼との接点を作りたかったが為だった。  彼女のアプローチは思いの外スムーズに運び、そうして、乾杯からわずか十五分で、凛はこれといって親しい者がいない会場の中、孤立した。そうなると、興味の無い場にあって、参加費の元を取り時間を潰すには、これはもう、飲むしかない。ビール、チューハイ、ハイボール、日本酒、そしてまた、ビールに戻ったところまでは憶えているのだが、その後の記憶がない。  誘った友人が責任をとって回収してくれたのだろうか、と思ったが、親元に住む彼女の部屋は、横になった時、天井の縁が見えない程は広くなかった筈だ。とすると、ここは彼女以外の人物の部屋、または、ホテルの一室である可能性が高い。ホテルであった場合、あまり…すごく良くない。これだけ天井が高く広く、ベッドの寝心地が上等なホテル、一泊いくらするかしれない。都心であれば、凛子の年末アルバイトの稼ぎだけでは賄えないかもしれない。  だが、実は、本当のところ……凛子には、ここが何処かということより、更に気になることがあった。目覚めた直後からずっと、右横の方から他人の寝息を感じていた。  誰なんだ。  凛子はぎこちなく、仰向けの状態で上に向けていた顔を右側に倒した。凛子の顔の横にあったのは、枕を下にした美人の横顔だった。無駄のない額、鼻、口、顎の輪郭。閉じられた目の淵に長い睫毛。そして、男性にしては長めの前髪と襟足、男性らしい喉の突起……そう、凛子の横に寝ていたのは、美人ではあったが男だった。  咄嗟に、凛子は布団の下の自分の身体を確認した。服は着ていた。昨日と同じ、上はトレーナーに下はだぼだぼのデニムパンツ。ブラジャーのホックは外れていたが肩紐は肩にひっかかっているし、デニムのボタンは開いていたがジッパーは締まっていてパンツも履いている。布団の中の凛子の服装は、疲れて帰ってきて着替えもせずに寝る時の状態と完全に一致していた。ということで、どうやら凛子の操は昨日までと同様、守られていた。  ひとまず安堵し、ほんの少し気持ちに余裕のできた凛子は、横で寝ている男の顔をもう一度見た。男の顔には、見覚えがあった。寝顔は初めて見たが、起きている顔であれば何度か見かけている。彼は間違いなく、サークル内でも学内でもモテまくりのイケメン男子、須崎瑠衣(すざきるい)だった。  昨日の晩、会場の中で凛子は確かに彼を見かけた。サークル内の女子の三分の一は彼の熱心なファンで、彼の一挙手一投足に騒ぐ彼女らのおかげで、須崎の存在確認がえらく容易だったからだ。  しかし、凛子にそもそも親しくない須崎と話した記憶は無く、記憶にある限りでは、その晩も座っていた席はお互い遠かった筈だ。よってなぜ、翌朝の現在、彼と自分が同衾しているのかさっぱりわからない。  須崎の寝顔を見るとはなしに見ているうちに、彼のプライバシーを侵害してしまっているような気分になってきた凛子は、さっさと帰ってしまおうと、ベッドから上半身をこした。  ―――…!!襲ってきた二日酔いによる頭痛に耐え、それから、目当ての物を探そうと室内を見まわした。そこは、二十畳はありそうなワンルームだった。収納の為の家具は見当たらず、大きなテレビとスピーカー、スタンドライトとソファが広い空間にポツポツと置かれていた。カーテンが開かれたままの大きな窓の外に視界を遮る壁はなく、都心のビル群を一望することができた。  そういえば、須崎のファンが、彼はどこかの会社の重役の息子だとか言っていたな…そんなことを凛子は思い出した。  キッチン手前のダイニングセット、その中の一脚の椅子の上に、凛子は自分のコートとトートバッグを発見した。荷物を取りに行こうと頭痛に警戒しながらベッドから腰を浮かせると、背中から「んん…」と小さく唸る声が聞こえた。床に立ち上がった凛子が振り向くと、まだ完全に横になったままの、だが目を半分程開いた須崎がいた。 「おはようございます」 「…………おはよう」  彼の方も、しばらくはどうして凛子が自分の家にいるのかがわからない様子だったが、やがてなにやら納得し、挨拶を返してきた。 「あのー、私は同じサークルの、田伏です」 「知ってる」 「一晩泊めていただいたようで、ありがとうございました」  凛子は深々と、だが素早く頭を下げ、すぐに起こすと、横歩きでダイニングチェアに近付き、コートとバッグを手に取り腕に抱えた。 「じゃ、失礼します」  それからは、凛子は振り返ることなく早足気味で廊下へ続く扉を出た。自分が住む日常とは全く違う、自分には場違いな高級マンションからさっさと脱出したかった。  玄関までの十歩に満たない距離の半ば、凛子は後ろで扉が開き、閉じ、そして、足音が追ってくる音を聞いた。何だろう、と思った時には、もう荷物を持っていない方の手首が掴まれていた。凛子が振り返ると、当たり前ではあるが、そこには須崎がいた。  凛子は、歴代の須崎と噂になった女子…いずれもモデルか女子アナか、といった美人の面々と自分を脳内で比べ、まさか、対象外だ有り得ないと思いつつ、恐怖を感じた。  壁の厚そうな、そうそう音が隣室や通路に漏れないだろうマンションの一室で男性と二人きり…相当やばいのではないだろうか。実家の母の言葉が頭をよぎった。「男はわからないから、どんな安全そうな男でも、油断するんじゃないよ」――…身動きできず声も出せない凛子に、須崎は言った。 「もやしは、どうするの?」
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