【東京編】第三話~潮崎琉海~

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「ちょっと待って、湊ちゃん――」 「早くしろ」 「あの、ここじゃなくない……? 降りる駅……」  琉海は今、湊介に手を引かれながら地下鉄の駅の改札(かいさつ)を出て、地上へ続く階段を(のぼ)っていた。  どうしよう……、湊ちゃん、(おこ)ってる?  さっき琉海は、地下鉄の車内で偶然、(ふた)()に会った。きっと彼は学会にでも行くのだろう。いつも車で移動することの多い二矢がスーツで電車移動をする時には、大抵(たいてい)がそうだった。しかし、まさかあんな所で会ってしまうなんて。琉海は想像すらしていなかった。よりにもよって、たまたま湊介と一緒に東京にやって来た、この日にだ。  二矢は亡くなった琉海の母親、アンナの元主治医である。琉海は約一年間、彼と肉体関係を持っていた。それは、カウンセリングという名目(めいもく)(もと)、ただ会ってひたすら()かれて、快楽を得るだけの不毛(ふもう)な関係だった。それでも、当時の琉海にはたぶん、彼が必要だった。二矢と()ごしたあの時間は実に生産性のないものだったが、心の隙間(すきま)一時的(いちじてき)にでも()めることで、琉海は確かに救われていたのだ。もちろん湊介には二矢の話も、特別彼に対して恋愛感情を持っていたわけではないこともちゃんと話してある。ただし、湊介は二矢の話が出るといつも決まって不機嫌(ふきげん)になった。  そもそも、初めて湊介とセックスをした夜から、湊介は随分(ずいぶん)と二矢に嫉妬(しっと)していたようだった。恋人となった今でもそれは変わらない。二矢の話が少しでも出れば、湊介は変わらずひどく()くので、今では琉海もその話題には()れないように極力(きょくりょく)気を(つか)っている。それなのに、二人でいる時に本人と遭遇(そうぐう)してしまうなんて、ちょっと運が悪すぎやしないだろうか。  ツイてないな……。せっかく湊ちゃんとのデートなのに。 「あの、湊ちゃん……」 「ここから家まですぐだけど、タクシー使おう」  湊介は今、きっとひどく二矢に嫉妬(しっと)している。だから彼は降りるはずではなかった駅に、咄嗟(とっさ)に降りたのだ。湊介に手を引かれながら琉海は長い階段を上がり、やがて地上に出る。湊介は()れたようにタクシーをつかまえると、琉海に先に乗るように(あご)をしゃくった。琉海はこく、と(うなず)いてタクシーに乗り込む。 「湯島(ゆしま)方面向かってください」  運転手が返事をして、タクシーはすぐに走り始めた。湊介の実家のマンションまでは本当に数分だった。  (せま)い路地に立つ大きなマンションの前でタクシーが停まる。代金を支払い、湊介と琉海はタクシーを降りた。この近辺は、以前琉海が一人で湊介に会いに東京へ来た時、一度、(おとず)れたことがある。本来ならそれをしみじみ思い返したりもできたのだろうが、今の琉海はそんな心の余裕はない。そうっと湊介の顔色を(うかが)い、その表情を何度も確認する。 「何だよ……」  ジロッと怪訝(けげん)そうな目を向けられるも、琉海は必死に笑みを見せた。 「いや……。湊ちゃん大丈夫?」 「大丈夫って?」 「だってほら……、先生に会うの、初めてだったでしょ……?」 「あぁ……」  湊介はそれだけ返すとまた無言(むごん)になった。 「こ、こんなとこで会っちゃうなんて……思わなかった……。ね……?」 「あぁ……」  短い返事をして、マンションのエントランスに入っていく湊介を、琉海は(あわ)てて追った。湊介はロビーにいる管理人に頭を()げてから、エレベーターに乗り込んでいく。  どうしよう……。気まずい……。  エレベーターの中、沈黙(ちんもく)は続いていた。琉海は、何か適当な話題はないだろうか、と必死に頭の中で考えを(めぐ)らせる。しかし、昨日テレビで()たニュースや、天気予報、芸能人のゴシップネタを話したところで、湊介の機嫌(きげん)が直るはずもない。ところが――。 「琉海……」 「なっ! なに――」  不意に呼ばれてビクッと肩を(ふる)わせる。と、次の瞬間。唇に温かい熱と感触が重なった。それはほんの一瞬で、気が付いた時にはもう離れていた。唇が離れたのとほぼ同時に、エレベーターの扉が(ひら)く。 「着いた。行くぞ」 「うん……」  なんでキス……? 不機嫌(ふきげん)だったんじゃなかったの……?
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