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 剛のズボンの左ポケットがぞわぞわと震えた。 剛はポケットに入れている自分のスマートフォンにメッセージが届いたことに気がついた。  一人きりの静かなオフィスでは今窓を叩いている雨の音さえよくわかるため、スマートフォンが震える音もよく聞こえた。  剛は危うく乗っていた脚立から足を滑らせる所だった。剛はうさぎのような機敏さでオフィスの壁掛け時計を確認した。時刻は午後七時をちょうど指したところだった。  剛は口を開けながら天井を見上げた。大掃除を早く終わらせようと夢中になって連絡をすっかり忘れていたことを思い出した。自分の落ち度に比べてシミのないアイヴォリー色をした天井が憎らしくなった。  剛は脚立の天板に腰掛けて、黒いスーツのズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。  スマートフォンの本体横にある電源ボタンを押してスイッチオン。明るくなった画面に浮かび上がってきたものは三つ。  剛と絵梨香が絵梨香の自室のベッドの上で頬を寄せてくっつきあっている写真とデジタル表示で19:00を指している時計と絵梨香からのメッセージが届いていることを知らせているスティックケーキのようなポップアップだった。  絵梨香と夕飯を一緒に食べると約束した時間は今日の午後七時だ。  剛は未だに帰り支度すらできていなかった。  剛はため息をついた。そのため息の中には約束を守れなかった罪悪感とメッセージを開きたくない逃避欲が入っていて、見た者を不快にさせるできの悪いマーブル模様になっていた。しかし「なんで僕ばっかり」という誰かを責める愚痴は辛うじて入っていなかった。  剛は両手でスマートフォンを持って、暗証番号を脊髄反射と同じスピードで画面に入力する。「0801」 暗証番号は彼らが付き合い始めた記念日だった。番号は絵梨香が決めた。もちろん絵梨香も同じ数字。 剛は見たくないと思いつつもアプリケーションを開いてメッセージを読む。画面には装飾が一切ない文字が並んでいた。 『どうしてまだ会社にいるの?』  剛はすぐにメッセージを考える。 『ごめんね、会社の大掃除がまだ終わらなくて』  嘘偽りなく、正真正銘の真実だった。今日剛以外の営業部社員が出席している忘年会への参加を断ったことが急に大掃除を押し付けられた原因だった。「お前、頭オカシイぞ?」と上司から宇宙人でも見るような顔で説教されたことを思い出す。 そこまでしているのに。  しかし、理由や事情を考えている余裕はない。取引先とのトラブルだって早く動くことに越したことはない。言い訳無用。善は急げ。  剛は細かく素早く指を動かしてメッセージを打ち込む。しかし、簡単に送信ボタンを押すことができなかった。  ごめんね、と送ることは簡単だ。でもそれでいいんだろうか? どんな気持ちで絵梨香が自分を待っているのかを考えると簡単に答えは見つからない。 しかし、メッセージを送らないわけにもいかない。以前にも似たようなことがあったとき、絵梨香のメッセージへの返信が遅れたことがあった。  取引先との懇親会の席だった。相手の話に耳を傾け、酒宴といっても言葉に気をつける。そういった空気の中で私用に夢中になることは憚られる。剛は自分にそう言い聞かせて、ポケットの中で不規則に震え続ける小さな機械が電子型高性能爆弾のようだと思っていた。さらに、それが彼女の家で爆発しないことを祈っていた。おかしな話だと剛は思った。  懇親会がお開きになったあと、恐る恐るポケットから電子型高性能爆弾を取り出して、中身を確認すると、何十通ものメッセージとその倍くらいの着信があった。メッセージの内容を確認する前にその場で電話をした。すると、怒り狂った絵梨香が電話に出た。その声を聞いてしまった剛はもうお手上げだった。終電がなくなっていたのでタクシーを使って絵梨香の家まで行った。約三十八キロメートルの道のりは時間にして一時間半、日本円にして一万五千五百九十円となった。  その一件があってから、位置共有アプリケーションのインストールと会社の宴席であっても参加した場合には写真をその場で撮影すること、さらに女性がいる場合は出席禁止になった。たとえそれが既婚であったとしても、かつては少女だった年上のお姉さん方だったとしてもだ。重要なのは脊髄反射。  スマートフォンが震える。絵梨香からだ。内容を確認して内容を考える。  剛のやることが一つ増えた。ただの大掃除から爆弾解体をしながらの大掃除となった。
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